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文定大妃が大切にした奉恩寺(ポンウンサ)と大妃に仕えた僧侶・普雨(ボウウ)

朝鮮の人々 6 李氏朝鮮の人々

韓流時代劇「オクニョ」では文定大妃が奉恩寺(ポンウンサ)を改築すると言い出して、その資金を巡って問題がおこります。明宗の反対にも関わらず文定大妃は寺の改築を強行しようとします。それだけ文定大妃にとって奉恩寺は大切な寺でした。

李氏朝鮮は儒教を国教とする国です。もともと高麗王朝の腐敗の原因のひとつに、仏教と権力の結びつきがありました。そのため李氏朝鮮では仏教を否定して寺院が所有していた土地を取り上げ国の財源にしました。仏教勢力の影響をなくして新しい国を作ろうとしたのです。

歴代の王族の中には世宗のように熱心な儒教者もいました。でも権力者にとって儒教は身分制度や地位を維持するのに都合がよかったから利用しただけのようです。王族にとって儒教は他人を動かすための道具に過ぎません。それに対し仏教は本人の心の拠り所でした。

李氏朝鮮で最も仏教が栄えたのは世祖(首陽大君)の時代でした。それは晩年の世祖自身が心の救いを求めたからでした。

したがって王室の中には個人的に仏教を信じる人もいました。首陽大君やその后・貞熹王后、仁粋大妃などは仏教好きで有名です。李成桂も晩年は仏教にのめり込みました。他にも仏教を信じた王族はいました。

争いの絶えない宮廷内での生活に疲れ、心の拠り所として仏教が選ばれたのです。

文定大妃も熱心な仏教徒の1人です。ちなみに文定大妃は貞熹王后の実家の子孫。仏教に縁の深い一族だったのかもしれません。

しかし科挙で採用された文官やその子孫は熱心な儒教の信者でした。そのため、宮廷内でも仏教と儒教の対立は起きています。儒教と仏教の対立で最も激しかったのが文定大妃の時代でした。

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奉恩寺(ポンウンサ・ほううんじ)

奉恩寺は新羅時代(794年)に出来た見性寺がそのはじまりです。

燕山君時代(1498年)に、成宗の墓を管理する寺に指名するとともに奉恩寺という名前にかわりました。

明宗の母・文定大妃は熱心な仏教徒でした。しかし儒教を国教にする李氏朝鮮では仏教が衰退していました。そのため朝鮮で衰退していた仏教を復興させようとしました。

文定大妃は1551年。奉恩寺を朝鮮における禅宗(曹渓宗)の総本山にしました。また文定大妃は朝鮮における仏教の中心に決めて仏教を広めようとしました。

文定大妃は腹心の僧・普雨を奉恩寺の責任者に任命しました。文定大妃は科挙で僧科試験を復活させました。僧科試験は奉恩寺で行われました。

しかし儒学者にとって仏教は異教です。朝鮮国内の儒学者からは批判を浴びました。文定大妃が生きている間は仏教にたいする保護は行われましたが、文定大妃の死後、僧科試験は廃止され、普雨は追放されます。奉恩寺の勢力も急激に衰えました。

普雨(ボウウ)

生年:1515年
没年:1565年

普雨(ボウウ)は13代国王・明宗の母・文定大妃に仕えた僧侶です。

1530年(中宗25年)。金剛山(現在の北朝鮮江原道 )の摩訶衍庵に入り、禅と経学(儒教の聖典に書かれた意味を研究すること)を学びました。その後、雪獄山 (韓国と北朝鮮の国境付近にある山)白潭寺の僧侶になりました。

文定大妃の仏教徒だった鄭蘭貞(チョン・ナンジョン)の紹介で文定大妃に取り立てられました。朝鮮における禅宗の総本山、奉恩寺の責任者になりました。

しかし朝鮮では仏教は異教あつかいでした。儒教を信じる重臣たちから批判を浴び、訴えも起こされますが。文定大妃によって守られました。

しかし文定大妃の死後、重臣たちによって済州島に流され死亡しました。

文定大妃の時代は李氏朝鮮で最後に仏教が栄えた時代

熱心な仏教徒だった文定大妃の死後、李氏朝鮮では仏教は廃れます。士林派が力を持った成宗以降、仏教というだけで批判されることが多く。文定大妃、鄭蘭貞などは朝廷内に仏教勢力を引き込んだ張本人として批判の対象になっています。

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