ドルゴン・幼い皇帝の代わりに清朝を動かした摂政王

2018年7月5日

ドルゴンは後金や清朝の皇族。清朝2代皇帝ホンタイジの異母弟です。

ドルゴン自身は皇帝にはなりませんでしたが、摂政として幼い皇帝の代わりに政治をおこないました。

その権力は強く「摂政王」と呼ばれます。

史実のドルゴンなどんな人物だったのか紹介します。

ドルゴンの史実

いつの時代の人?

生年月日:1612年
没年月日:1650年

名前:愛新覚羅 多爾袞(アイシンギョロ・ドルゴン)
称号:和碩睿親王、成宗
父:ヌルハチ
母:アバハイ

ドルゴンは後金から清朝初期の人物。
李氏朝鮮時代中期。
日本では江戸時代初期になります。

おいたち

女真族の王ヌルハチの14男として生まれました。

母は第4王妃のアバハイです。

1643年。ヌルハチが死亡すると、母アバハイは殉葬されました。当時の女真族には高貴な人が死ぬと妻や奴婢が一緒に埋められるという習慣がありました。母は父の墓に埋められたのです。

ヌルハチの死後、後継者争いが起こりました。ドルゴンとその兄弟英郡王アジゲ、予郡王ドドのグループと、ヌルハチの長男粛親王ホーゲのグループが対立しました。

二つのグループが対立すると清が分裂してしまうため、ヌルハチの9子フリン(順治帝)が即位しました。順治帝はわずか6歳でした。

幼い皇帝の代わりに、ドルゴンは摂政として政治を行いました。

ドルゴンの弟ジルガランも摂政になりましたが、ドルゴンは力を付けていきます。

1644年。ホーゲがドルゴンを批判しているのを聞くと、ホーゲが謀反を企んでいると訴えました。順治帝は泣いて兄ホーゲを助けました。

1647年。権力を拡大したドルゴンはジルガランから摂政の座を奪いました。同母弟ドドやアジゲを要職につけて、身内でかためました。

ホーゲはその後、戦場で手柄を立てつづけます。ホーゲを危険に思ったドルゴンはホーゲに謀反の疑いをかけて殺そうとしました。このときも順治帝は処刑を認めませんでしたが、ドルゴンはホーゲを捉えて投獄しました。ホーゲは獄中で死亡しました。

ますます権力を手にしたドルゴンは横暴になりました。「摂政王」「叔父摂政王」などと名のっています。

ホーゲの死後、彼の側室ボルジギト氏を自分の妃にしました。

1650年。ドルゴンは狩りの最中に死亡しました。成宗の廟号をあたえられました。王でもないのに「宗」の名を与えられるのは異例です。

ところが、ドルゴンの死後。押さえつけられていたドルゴンの反対勢力の不満が爆発。

1651年。ドルゴンは罪人にされました。ドルゴンの位は剥奪されて、墓が暴かれ遺体を斬首にされました。

1778年。ドルゴンの名誉は回復しました。

 


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