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漢南君と永豊君は母・恵嬪楊氏とともに世祖に抵抗して流罪になった

3 李氏朝鮮の王子

 

漢南君(ハンナングン)と永豊君(ヨンプングン)は世宗と恵嬪楊氏の間に産まれた王子。

母・恵嬪楊氏とともに首陽大君(世祖)と対立して流罪になりました。

恵嬪楊氏は端宗の育て親です。端宗の地位を回復しようとしました。

史実の漢南君と永豊君はどんな人物だったのか紹介します。

 

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漢南君(ハンナングン)の史実

いつの時代の人?

生年月日:1429年9月8日
没年月日:1459年5月29日

名前:李
称号:漢南君(ハンナングン)
父:世宗
母:恵嬪楊氏
妻:安東権氏

子供
息子:李衆生
娘:李修理

彼は朝鮮王朝(李氏朝鮮)の4代世宗~7代世祖の時代の人です。

日本では室町時代になります。

おいたち

1429年(世宗11年)。世宗の側室・恵嬪楊氏(ヘビンヤン氏)との間に生まれました。

恵嬪楊氏にとっては長男です。

1442年(世宗24年)。漢南君(ハンナングン)の称号を与えられました。

1455年閏6月。世祖が即位すると、錦城大君、恵嬪楊氏、永豊君とともに、謀反を働いたとして流刑になりました。

最初は錦山に流刑になり、牙山に変更になりました。

1456年。咸陽に移されました。

流刑先では厳しく監視されました。屋敷にはカギがかけられ人や物の出入りが禁止されました。門番が不正を働かないように抜き打ちで検査をするという念のいりようです。

屋敷内には井戸が掘られ、自給自足の生活を強いられました。

全ての土地、財産を没収されました。

1459年5月29日。流刑先で病死しました。享年31。

六宗英の一人に数えられています。

テレビドラマ

インス大妃 JTBC 2011年 演:ユ・ギョム

 

永豊君(ヨンプングン)の史実

いつの時代の人?

生年月日:1434年8月17日
没年月日:1456年6月20日

名前:李瑔
称号:永豊君(ヨンプングン)
父:世宗
母:恵嬪楊氏
妻:朴彭年の娘

子供

彼は朝鮮王朝(李氏朝鮮)の主に12代仁宗~13代明宗の時代です。

日本では江戸時代の人になります。

おいたち

 

1434年(世宗16年)。世宗の側室・恵嬪楊氏(ヘビンヤン氏)との間に生まれました。

恵嬪楊氏にとっては三男です。

1441年(世宗23年)。永豊君(ヨンプングン)の称号を与えられました。

集賢殿の学士、朴彭年の弟子になります。朴彭年は後に首陽大君に対して抵抗運動を行った死六臣の一人です。

朴彭年の娘と結婚しました。

1456年。首陽大君が端宗の王位を奪うと、錦城大君、恵嬪楊氏、兄の漢南君とともに端宗の復位運動をはじめました。

義父の朴彭年たちが捕まり処刑された後。

 

永豊君も謀反の疑いで捕まり禮安に流刑になりました。

その後、清州に移されます。

1456年。流刑地で殺害されました。

1712年。粛宗の時代に身分が回復されました。

六宗英の一人に数えられています。

 

六宗英(ユクジョンヨウン)

端宗の復位のために世祖と対立して殺された6人の王族は、後の時代に六宗英と呼ばれるようになりました。

安平大君:世宗と元敬王后閔氏の息子
錦城大君:世宗の元敬王后閔氏の息子
和義君:世宗と令嬪姜氏の息子
漢南君:世宗と恵嬪楊氏の息子
永豊君:世宗の恵嬪楊氏の息子
河寧君:太祖の妹の孫

の6人です。

 

テレビドラマ

ハンミョンフェ KBS 1994年 演:キム・ソンファン
王と妃  KBS 1998年 演:キム・ギョンウン
インス大妃 JTBC 2011年 演:イ・ヅソク

 

漢南君と永豊君は流刑になったあと殺害されました。母の恵嬪楊氏が絞首刑になったのと比べると軽い刑のように思えますが、世宗の血を受け継ぐ王族にも関わらず重い処分を受けたのでした。二人共流刑先では軟禁状態にあり、人や物の出入りが禁止されました。錦城大君との接触は警戒されていたようです。

いずれにしても、世祖からは端宗派の人々は危険人物として扱われ粛清の対象になりました。

 

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