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河演(ハ・ヨン)世宗を支えた根っからの儒学者

朝鮮重臣 5 李氏朝鮮の重臣

韓国ドラマ「チャン・ヨンシル」で世宗に批判的な重臣として登場するハ・ヨン。明に従い儒教の教えを大切にする重臣です。河演(ハ・ヨン)は世宗の時代に実在した人物。鄭夢周(チョン・モンジュ)の教えをうけつぎ、儒教で国を良くしようとしました。悪い人物ではありませんが、融通がきかないところがあります。

史実の河演(ハ・ヨン)どんな人物だったのか紹介します。

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河演(ハ・ヨン)の史実

いつの時代の人?

生年月日:1376年
没年月日:1453年

名前:河演(ハ・ヨン)
雅号:敬齋
本貫:普州河氏
父:河自宗

彼が活躍したのは朝鮮王朝(李氏朝鮮)の初代太祖~4代世宗の時代です。

日本では室町時代の人になります。

河演(ハ・ヨン)の祖父は高麗時代の役人。代々高麗の役人をつとめた家柄です。父・河自宗も鄭夢周(チョン・モンジュ)たちと親交がありました。河演も鄭夢周を師匠として慕っていたといいます。

李成桂が朝鮮王朝を作ると祖父や父は朝鮮に仕えることはせず隠居しました。しかし河演は朝鮮の役人を目指します。そうしなければ一族が生きていけなかったのでしょう。

1396年(太祖5年)。河演は科挙文科に合格しました。

太祖から太宗の時代は若手士大夫(儒教を学んだ役人)の一員として、下積み時代を過ごしました。鄭道傳(チョン・ドジョン)などと一緒に政治を動かしていた権近などは「将来国を背負う逸材だ」と河演を高く評価していたといいます。

1402(太宗2年)。27歳の時。司憲府監察になりました。

1414年(太宗14年)。司憲府の高官になりました。当時、司憲府は朝廷の綱紀をとりしまる役所だったので派閥に属さない人物を任命するのが原則だったようです。

仏教弾圧を推進

1423年(世宗5年)。大司憲をつとめていた時。上訴文をあげて仏教の弊害を訴えました。当時は僧侶が堕落して私服を肥やしていたので問題になっていました。他にも寺院は大きな土地を所有していたので国の財政のたしにしたいという考えもあります。なにより、儒学者は仏教を敵視していたので、仏教を排除しようとしたのです。

世宗は河演の意見を取り入れ、7つあった宗派を2つに減らしました。廃止された寺院の土地と奴婢は国のものになりました。

河演は根っからの儒学者だったので死んだときも息子たちに仏教式の葬儀をしないように遺言を残しました。

儒学で国のために尽くす

1425年(世宗7年)。慶尚道観察使だったとき、王命で「慶尚道地理志」を編纂しました。慶尚道の地理をまとめたものです。たの地域のものは失われていますが慶尚道のものだけは残りました。

いくつかの法律の作成に関わっています。

1445年(世宗27年)。右議政になりました。

成三問(ソン・サンムン)、申叔舟(シン・スクチュ)などを採用。新しい人材の発掘にも意欲的でした。

70歳になった河演は二度引退を願い出ましたが、世宗は許しませんでした。

1449年(世宗31年)。左議政のとき、北の国境を超えて韃靼族が侵入しました。金宗瑞(キム・ジョンソ)を派遣して国境の警備を当たらせました。息子を派遣して金宗瑞を助けました。

領議政になりました。

1451年(文宗1年)。領議政を引退。

1453年(文宗3年)。78歳で他界しました。

鄭夢周の教えをうけ儒学を身に着け、国を良くしようとした士大夫の代表のような人でした。儒学一辺倒なので融通がきかない部分はありますが、私利私欲よりも国の将来を考える人だったようです。しかし時代ともに士大夫は派閥を作り私利私欲のために争うようになります。鄭夢周や鄭道傳らの理想を理解していた世代が河演たちなのです。

テレビドラマ

龍の涙 KBS 1996年 演:金孝元
チャン・ヨンシル KBS 2016年 演:ソン・ビョンホ

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