明聖王后金氏・粛宗の母はモンスターマザーだった?

2017年8月14日

明聖王后金氏(ミョンソンワンフ・キムシ)は李氏朝鮮19代国王粛宗の母親です。

張禧嬪を題材にしたドラマが数多く制作されているため、明聖王后もよくドラマに登場します。粛宗を困らすわがままな母親というイメージがありますが。実際にはさらに過激な女性だったようです。子供を心配するあまり無実の王族を貶めたり、政治に口出しをする恐い母親です。

500年続いた朝鮮王朝でも、世子嬪から王妃、王大妃と順調に昇進したのは、明聖王后ただ一人なんです。意外ですね。 

史実の明聖王后はどんな人物だったのか紹介します。

明聖王后金氏(ミョンソンワンフ・キムシ)の史実

いつの時代の人?

生年月日:1642年6月14日
没年月日:1684年1月21日

名前:金(キム)
称号:明聖王后(ミョンソンワンフ)
称号:顯烈王大妃(ヒョンリョルテワンテビ)
父:金佑明
母:宋氏(宋国沢の娘)
夫:顕宗(18代国王)
息子:粛宗(19代国王)
娘 : 明善公主
娘 : 明恵公主
娘 : 明安公主
娘 : 早世

彼女が生きたのは朝鮮王朝(李氏朝鮮)の主に18代顕宗~19代粛宗の時代です。

日本では江戸時代になります。

おいたち

 1642年。金佑明(キム・オミョン)の娘として生まれました。祖父は孝宗時代に領議政をつとめた金堉(キム・ユク)。

1651年。世子嬪になりました。

姑の仁宣王后は口うるさい人だったらしく、明聖王后は大人しくしてたようです。

1659年。夫の顕宗が即位。王妃になりました。

1674年。姑の仁宣王后が亡くなりました。明聖王后には恐いものはもうありません。ところが夫の顕宗まで亡くなってしまいました。明聖王后は32歳で未亡人になってしまいました。

王室を動かした顯烈王大妃

1674年。息子の粛宗が即位しました。明聖王后は王大妃になりました。顯烈王大妃とよばれることもあります。

でも粛宗は14歳。王としては若いです。大妃が垂簾政治を行っても不思議ではありません。ところが、年長者の慈懿大妃(荘烈王后)がいたため明聖王后は垂簾政治を行う資格がありませんでした。でも慈懿大妃は政治に口を出す人ではありませんでした。粛宗は重臣の力をかりて政治を行うことになりました。

とはいえ、粛宗が王になた時期は南人派と西人派の派閥争いが激しかった時期。経験のない若い王が政治を行うのは難しかったのです。そこで大妃は積極的に政治に口出しをしました。便殿に自分の椅子を運び込み、直接会議の場で発言します。粛宗が話を聞かないと自害すると脅迫しました。このような行いは重臣(特に南人派)から非難されます。

明聖大妃は従兄弟の金錫冑(キム・ソクジュ)を要職につけるように働きかけました。大妃の思惑通り、都承旨兼御衛大将になり、発言力を高めていきました。

粛宗が王になった始めの頃は垂簾政治こそ行ってなかったものの、実質的には母・明聖王后の影響で朝廷が動いていました。

紅袖の変でライバルを消す

明聖大妃は14歳と若く病弱な粛宗が王になったことに不安を感じていました。顕宗のいとこ福善君に息子の王位が奪われるのではないかと心配していたのです。福善君は麟坪大君(16代仁祖の三男)の息子です。福善君は顕宗時代に起きた飢饉のときに清と交渉して大量の援助物資を引き出した実績がありました。福善君を慕う者たちが王にしようとするかもしれないと不安に思ったのです。

一方の、福善君の兄弟、福昌君、福平君は王族であることを自慢して日頃の行いはあまり良くありませんでした。そこでが彼らを利用して福善君、福昌君、福平君(三人をまとめて三福といいます)を陥れることにしました。

1675年3月(粛宗1年)。明聖大妃の父・金佑明が福昌君と福平君が宮廷の女官と密通していると訴えました。義禁府が調べましたが証拠は見つかりません。粛宗は三福を無罪にしました。

すると南人派の許積と尹鑴が金佑明はウソの告発で王族を冒涜したと訴え、宮殿の前でデモを行いました。粛宗は金佑明の処分を決定しました。

ところが母・明聖大妃は王命を偽造して真夜中に重臣たちを集め、白装束姿で便殿で号泣しました。三福の処分と金佑明の無罪を訴え、重臣たちの署名を集めました。

母と重臣たちの圧力に14歳の粛宗は抵抗できず、金佑明の釈放と三福の流刑を決定しました。

スポンサードリンク

 

高まる南人派の不満に実家没落の危機

しかし王の親族ということで影響力を強める金一族に対する不満が南人派を中心に高まります。許穆や尹鑴ら南人派重臣は「明聖王后は文定大妃のようだ」と批判、王に抗議しました。(文定大妃は若い明宗に代わって政治を行った人物、死ぬまで権力を維持しました)

金佑明は処刑こそ免れたものの、娘に助けてもらうという大恥をかいてしまいます。さらに南人派から抗議が殺到しました。

自分や父親に対する南人派の批判に講義するため、明聖大妃は病気になったと言って寝込みました。医師の診察を拒否。粛宗を困らせます。

ますます立場が悪くなった金佑明は恥と怒りに耐えられなくなって引退しました。都を離れ酒浸りの日々を送り死亡しました。一説には心臓を悪くしたか自殺したとも言われます。

西人派と手を組んで反撃

自分に対する非難・父親の死・実家の没落の危機。明聖大妃は、これらは南人派と三福のせいだと考えました。そこで南人派に恨みをもっていた宋時烈ら西人派を懐柔して南人派の打倒と三福の処刑のため動き出しました。

1680年。南人派の中心的人物で領議政だった許積が軍の物資を横領してたことが発覚。粛宗の怒りをかって解雇されるという事件がおこりました。

好機とみた明聖大妃と西人派は、許積の息子・ホギョンが流罪中の三福と会っていることを利用して謀反の疑いをかけました。もともとホギョンは普段の行いが悪く乱暴を働くことが多かったことも好都合でした。彼らは処刑されました。

西人派の追求は許穆や尹鑴にもおよびます。彼らは以前から明聖大妃の批判を粛宗に行っていました。粛宗はもともと宮中の権力を握っている南人派に嫌気がしていていました。粛宗も母の行いには困っていましたが、さすがに彼らの過激な批判は我慢できません。様々な理由が重なって許穆や尹鑴は処刑されました。

結果的に明聖大妃の思惑通り南人派の粛清が行われました。

張玉貞(チャン・オクチョン)を追放

1680年12月。粛宗の妃・仁敬王后が亡くなりました。その後、粛宗が寵愛したのは荘烈大王大妃に仕える女官の張玉貞(後の禧嬪張氏)でした。張玉貞の伯父は三福と親しくしていたチャン・ヒョンでした。三福の処刑とともにチャン・ヒョンを流刑にしていました。粛宗が敵対勢力の女とばかりと親しくしていることに明聖大妃は危機感を持ちます。張玉貞を素性の分からない性格の悪い女と理由をつけて宮中から追放しました。

前後して西人派の重臣の娘を粛宗の次の王妃に迎えました。それが仁顯王后です。

1683年。粛宗が天然痘にかかりました。明聖大妃は仁顕王后とともに、断食をして毎日下着姿で水浴をしました。仁顕王后はぶじでしたが、明聖王后は風邪を引き亡くなりました。

子供を気にしすぎてやりすぎた?

明聖王后は頭が良くて気の強い女性だったと言われます。

母親からの圧力に粛宗は内心・嫌気がさしていたかもしれません。でも朝鮮は母親を大事にしなければならない世界です。王が母親に逆らうのは難しかったでしょう。

粛宗は美しかった張玉貞を寵愛したことで有名です。もしかすると母親への反発が張氏への溺愛に繋がったのかもしれません。母親の息のかかっていない女性とのひとときは心の拠り所になったのかもしれませんね。逆に母が選んで押し付けられた仁顕王后には嫌悪感を持っても不思議ではないですよね。仁顕王后は明聖王后の立場を引き付いて西人派勢力を代表することになりました。それもまた粛宗の反感を大きくしてしまったのかもしれません。

明聖王后は病弱だった一人息子を守ろうと頑張りました。でも、そのおかげで犠牲者も出てしまいました。やりすぎてしまったのです。まるでモンスターのような母親ですね。

 

テレビドラマの明聖王后

朝鮮王朝五百年 仁顯王后 1988年 MBC 演:キム・ヘスク
妖婦 張禧嬪 1995年 SBS 演:キョン・ミリ
張禧嬪 2002年 KBS 演:キム・ヨンエ
トンイ 2010年 MBC 演:パク・チョンス
馬医 2012年 MBC 演:イ・ガヒョン
チャン・オクチョン-愛に生きる 2013年 SBS 演:キム・ソンギョン

 


PAGE TOP