仁顕王后(イニョンワンフ)派閥争いの犠牲になり廃妃になっても復活した王妃

2017年10月4日

禧嬪張氏(チャンオクチョン)のライバルとして度々ドラマに登場する仁顕王后(イニョンワンフ)。

粛宗に愛される禧嬪張氏とは対象的に、冷たい扱いを受けたり策略にはめられて追放されたり。ひどい目に合わされる印象が強い王妃です。

「トンイ」の大人しく耐えるタイプ、「チャンオクチョン・愛に生きる」の粛宗と対立するタイプ。と表現も様々です。

史実の仁顕王后(イニョンワンフ)はどんな人物だったのか紹介します。

 

仁顕王后(イニョンワンフ)の史実

いつの時代の人?

生年月日:1667年4月23日
没年月日:1701年9月16日

名前:閔(ミン)(名前は不明)
称号:仁顕王后(イニョンワンフ)
父:閔維重(戸曹判書)
母:宋氏
夫:粛宗

彼女が生きたのは朝鮮王朝(李氏朝鮮)の19代粛宗の時代です。

日本では江戸時代前期の人になります。

おいたち

 1667年。閔維重と2番めの妻・宋氏との間に産まれます。次女でした。

1680年。19代王・粛宗の正室。仁敬王后が病のため死亡しました。

1681年。仁顕王后が王妃になる直前。明聖王后によって張玉貞が宮中から追い出されました。

王妃になる

1681年。仁顕王后は粛宗の2番めの正室となりました。当時14歳でした。

粛宗の母・顯烈王大妃(明聖王后)と、西人派の重臣・宋時烈らが推薦したためです。宋時烈は仁顕王后の母方の親戚になります。

また父の閔維重は刑曹判書、大司憲、戸曹判書などを歴任。軍権(兵を動かす権利)をもっているほか、朝廷内の影響力もありました。一族が宮廷の要職を独占していたため、南人派だけでなく、西人派の中からも批判を浴びていました。

しかも仁顕王后が宮中に入る直前には、粛宗のお気に入りだった張玉貞(チャン・オクチョン)が顯烈王大妃によって追放されていました。

そのような背景も影響したのか。仁顕王后は結婚当初から粛宗には相手にされなかったといいます。本人のせいではないにしても粛宗から疎まれる原因はあったのです。もともと病弱だった仁顕大妃は寝込むことも多かったといいます。仁顕王后にとって宮中はあまり居心地のよいものではなかったようです。

1683年。粛宗が天然痘にかかりました。仁顕王后は顯烈王大妃とともに、断食をして毎日下着姿で水浴をしました。仁顕王后はぶじでしたが、顯烈王大妃は風邪を引き死亡しました。

顯烈王大妃の死後。慈懿大妃(莊烈王后)によって張玉貞が宮中に戻ってきました。

仁顕王后は張玉貞が側室になることを認めました。仁顕王后は張玉貞がいない間、落胆している粛宗を見ていました。仁顕王后は張玉貞が粛宗の寵愛する女性なのを知っていたので寛容に接していました。

しかし粛宗の寵愛ぶりは仁顕王后の想像を超えていました。粛宗は仁顕王后のもとには来ません。張玉貞ばかり寵愛する粛宗に危機感を持った仁顕王后は西人派の金昌国の娘・金氏を側室にしました。ところが粛宗は金氏も相手にしませんでした。しかし仁顕王后の顔をたてるためか金氏を貴人の位に付けたり贈り物を送っていました。

西人派を代表する立場の仁顕王后と、南人派を代表する張玉貞は次第に対立するようになります。教育のためとして仁顕王后は張玉貞の足をムチで叩いたこともあったようです。

1688年。張玉貞は王子(昀・後の20代王・景宗)を出産しました。張玉貞は粛宗の寵愛を受け続け禧嬪の位につきました。

粛宗は昀を世子にしようとしました。しかし宋時烈を中心にする西人派が「仁顕王后はまだ若く、王子が生まれる可能性もある」として反対しました。

粛宗は強硬に反対する宋時烈を流刑にして死罪にしました。他の西人派の重臣も流刑になりました。

廃妃になる

1689年。22歳。禧嬪張氏と南人派の思惑、あるいは勢力を強める西人派を処分したい粛宗の思惑が一致して仁顕王后は廃妃に追い込まれました。

廃妃になった理由は当時の儒教思想では女性が言ってはいけないことを口にする嫉妬深い女だというものでした。「王妃は嫉妬してはいけない」という掟に逆らったため廃妃にするというのです。

仁顕王后の夢に明聖王后が出てきて「張氏は恨みを持って生まれ変わった獣の化身、南人派によって入宮したから追い出さなければいけない」などと禧嬪張氏を追い出すような発言をしていたといいます。本当に仁顕王后がこのような発言をしていたかは分かりません。

もともと仁顕王后に愛情のなかった粛宗は世子を産んだ禧嬪張氏をなんとしても王妃にしたかったのでしょう。世子を王妃の息子にすることでその地位は安泰になるのです。また、粛宗や南人派は力をつけた西人派を追放したいと考えていました。西人派のよりどころである仁顕王后を廃妃にしなければいけません。そのための口実とも考えられます。

粛宗は仁顕王后の持ち物を全て燃やしてしまいました。

仁顕王后は実家に戻り、「自分は罪人だから」と離れの小屋で暮らしました。

仁顕王后が側室にした貴人金氏も身分を剥奪され、宮廷から追放されました。仁顕王后が退いた後は禧嬪張氏が王妃になりました。

実家に戻り、苦しい生活を続けていた仁顕王后は周囲の同情を集めます。西人派だけでなく庶民からも同情を集めました。西人派は仁顕王后の復位運動を始めます。

一方の粛宗も張玉貞を王妃にしたことで南人派の勢いが強くなりすぎたことを警戒していました。

粛宗と西人派の思惑が一致。南人派が追放されました。

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王妃に戻った仁顕王后

1694年。王妃だった張氏は禧嬪に降格させ、仁顕王后は王妃に戻りました。貴人金氏も宮中に戻りました。

ところが、粛宗のこの行いに対して西人派内で意見が割れてしまいます。西人派は老論派と小論派に分裂しました。

老論派は仁顕王后の復位に賛成しました。少論派は仁顕王后は王宮に戻すものの、王妃は張氏にするという意見でした。王妃のオクチョンが世子の母であることを重視したためです。

王妃に戻った仁顕王后でしたが、少論派は仁顕王后と禧嬪張氏を同等に扱おうとしたり、禧嬪張氏を王妃に準ずる地位を与えるように粛宗に意見したりと混乱は続きました。

世子の昀が仁顕王后の養子になりました。これは世子は王妃の子供ということになっているためです。

そんな中、困窮生活を送ったためか、仁顕王后の体調がますます悪くなりました。心臓に病を持っていたともいわれます。

1700年。下半身が膨れるという奇病にかかりました。体が徐々に腐っていく(壊死?)苦痛に襲われます。
1701年。2年間闘病生活を送った末、昌慶宮で亡くなりました。享年34歳。

次の王妃を巡って最後の駆け引き

仁顕王后は亡くなる前に自分が死んだら貴人金氏を次の王妃にしてほしいと頼んだといわれます。

少論派は仁顕王后が生きているにもかかわらず「禧嬪張氏を王妃と同等の扱いにしろ」と主張しています。仁顕王后が死んだら次の王妃にするのはわかりきっていました。

仁顕王后を支持している老論派のためにもそれはできません。貴人金氏は両家の出身で子供がいません。王妃になっても世子の立場が危なくなることはありません。

当時、粛宗が寵愛していたのは淑嬪崔氏でした。淑嬪崔氏も老論派です。仁顕王后も親しくしていました。仁顕王后にとって不都合な部分はないのですが、淑嬪崔氏には息子がいました。王妃になれば世子を誰にするかが問題になります。粛宗は昀を世子にしたいと考えていますので淑嬪崔氏を王妃にはしづらかったのです。

でも禧嬪張氏が王妃になれば少論派や南人派が力つけ、老論派が危なくなります。それだけは防がないといけません。粛宗の希望と老論派両方を満足させる方法として貴人金氏を王妃にする案を思いついたのかもしれません。

現実には粛宗が「側室は王妃にはなれない」という法律を急遽作る離れ業を使ったので実現はしませんでした。しかし禧嬪張氏を王妃にしない、南人派を復権させない、という目的は達成されました。

仁顕王后の死後

仁顕王后の死後、南人派や少論派は禧嬪張氏を王妃にしようと主張し始めます。

粛宗は側室は王妃にはなれないという規則を作ったため、禧嬪張氏や貴人金氏が王妃になることは実現しませんでした。

仁顕王后の死後、淑嬪崔氏が訴え出ます。禧嬪張氏が仁顕王后を呪っていたというのです。禧嬪張氏は死罪となり毒薬を飲んで死亡しました。

まとめ

「トンイ」など一部のドラマでは仁顕王后に対して粛宗が優しくする場面があります。でも、記録を見る限りでは仁顕王后が粛宗に愛されている様子はありません。

少なくとも廃妃になるまでは粛宗には快く思われていないように感じられます。仁顕王后とその周辺の描かれ方については「チャンオクチョン・愛に生きる」の方が史実に近いかもしれません。

史実では自分が寵愛を受けないとわかると金氏(トンイ、チャンオクチョンには登場しません)を側室にして西人派の期待に応えようとしましたが、禧嬪張氏の壁は大きかったようです。

もしかすると大奥のドラマのように粛宗をめぐって禧嬪張氏と争っていたのかもしれません。

粛宗は実家と仲が悪い。自分を選んだのは粛宗最愛の人を追い出した明聖王后。粛宗は自分の母は恨めませんから最愛の人を失った憎しみは仁顕王后に向けられます。

仁顕王后にとって不利な環境での宮廷暮らしでした。粛宗の愛情を勝ち取ることでは禧嬪張氏に叶いませんが、庶民の同情を得て気の毒な王妃の印象を残すことになりました。

仁顕王后は書道が得意だったと言われます。ハングル文字の手紙を残し、後世の文学やハングル文字の研究に役立っています。

仁顕王后は14歳で王妃になったものの、粛宗に愛されることはなく派閥争いに翻弄された末に34歳の若さで亡くなりました。子供もいません。いずれにしても幸せとは言い難い人生だったようです。

 

テレビドラマ

張禧嬪 MBC 1981年 演:イ・ヘスク
仁顕王后 MBC 1988年 演:パク・スネ
妖婦 張禧嬪 SBS 1995年 演:キム・ウォニ
チャン・ヒビン KBS 2002年 演:パク・ソニョン
トンイ MBC 2010年 演:パク・ハソン
イニョン王妃の男 tvN 2012年 演:キム・ヘイン
チャン・オクチョン-張禧嬪 SBS 2013年 演:ホン・スヒョン

 


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