粛宗(スクチョン)は王妃をとりかえた非情な王様?

2017年10月4日

トンイの粛宗(タペストリ@楽天より)
トンイの粛宗(タペストリ@楽天より)

粛宗は朝鮮三大悪女で有名な張禧嬪の王様とあってドラマになる回数も多い王様です。それだけに描かれ方も様々です。

最近では描かれ方も変わっているようです。「トンイ」では悩みながらも優しさのある王様。「チャンオクチョン・愛に生きる」では、ひたすらチャン・オクチョンを愛し続けながらも他の女性には冷たい王様でした。

実際の粛宗はいったいどんな王様だったのでしょうか。優柔不断というよりは、意外と非情だったという説もあるんですね。史実の粛宗(スクチョン)はどんな人物だったのか紹介します。

前回は粛宗の前半生を紹介しました。
粛宗は若くして王になって派閥争いに悩んだ王だった?

今回は仁敬王后 と 禧嬪張氏の争いがはげしくなる後半生を紹介します。

粛宗の後半生

仁顕王后 対 禧嬪張氏、女の闘いが始まる

1980年。最初の王妃・仁敬王后が天然痘で死亡しました。20歳の若さでした。

このころ、慈懿大妃(仁祖の2番めの王妃・荘烈王后)の女官をしていた張玉貞(チャン・オクチョン)と出会います。美しかったオクチョンを粛宗に会わせたのは劣勢にたっていた南人派の巻き返しだといわれます。慈懿大妃や南人派の思惑通り、粛宗はオクチョンを気に入りました。

1981年。粛宗20歳のとき。オクチョンを寵愛する粛宗に危機感を持ったのが母・明聖王后(顯烈王大妃)です。西人派重臣の宋時烈の親戚から次の王妃(仁顕王后閔氏)を選んだばかりでした。明聖王后はオクチョンを宮中から追い出しました。

仁顕王后閔氏が新しく王妃になりました。14歳でした。でも粛宗は気に入りません。母によって気に入っていたオクチョンを追い出されたうえに、母の親戚である仁顕王后が王妃になったのです。粛宗と仁顕王后は最初から冷え切った関係でした。

1684年。母・明聖王后が死亡しました。西人派を代表する立場になったのは仁顕王后です。

1686年。慈懿大妃と南人派は再びオクチョンを宮廷に戻しました。粛宗と仁顕王后の間に子供は産まれていません。そこで南人派の側室が王子を産めば次の王様は南人派よりになると考えたようです。粛宗とオクチョンは再開しました。南人派の思惑通り粛宗はオクチョンを側室(淑媛)にしました。

西人派と南人派の対立は仁顕王后とオクチョンの対立へと発展します。

1688年。チャン・オクチョンが息子・昀(ユン)を出産しました。粛宗は大変喜びました。その功績でチャン・オクチョンを禧嬪にしました。

己巳換局(キサファングク)・禧嬪張氏が王妃に

1689年。粛宗は張氏が産んだ昀を元子にしました。元子とは跡継ぎの男子という意味です。事実上の世子です(正式に世子になるのは清に認められた後です)。しかし、西人派の宋時烈らが「王妃は22歳と若く王子が生まれる可能性もある」として昀を元子にするのに反対しました。

昀を産んだのは南人派の支持する禧嬪張氏です。当時、西人派に圧されて劣勢だった南人派はすぐさま粛宗を支持しました。南人派の重臣・閔黯(ミン・アム)は仁顕王后の廃妃を強く主張。李義徵、禧嬪張氏の兄・張希載(チャン・ヒジェ)と共謀して西人派を追い詰めます。

粛宗は宋時烈を流刑にしたあと処刑しました。他の西人派重臣も官職を剥奪して流刑にしました。

粛宗は仁顕王后を「嫉妬深い、王妃にふさわしくない」という理由で廃妃にしました。このとき重臣たちの前で仁顕王后がどんなに王妃にふさわしくないこと言ったか並べ立てて非難しました。廃妃にするにはそれなりの理由が必要だからです。

粛宗は禧嬪張氏を王妃にしました。昀が側室の子ではなく王妃の子になり、世子になる名目が出来ました。

この事件を己巳換局(キサファングク)といいます。

このあと重臣を權大運などを南人派から採用しました。禧嬪張氏や南人派の期待通り、昀は世子になりました。朝廷では南人派の天下になったように思えました。

 

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淑嬪崔氏の登場と西人派の巻き返し

権力を手にした王妃になった張氏とその兄・張希載(チャン・ヒジェ)は行動が目立つようになりました。南人派の勢いも強くなりすぎました。粛宗は禧嬪張氏と南人派を警戒しはじめます。粛宗は禧嬪張氏と距離を置くようになりました。

粛宗はこのころ崔氏と出会います。崔氏は宮廷で働いていた身分の低い宮人(ムスリともいいます)といわれます。廃妃になった閔氏のために祈りを捧げていた崔氏を見かけた粛宗は崔氏を気に入りました。しだいに崔氏を寵愛するようになります。

崔氏は側室となり息子を出産しました。一人目は早くに亡くなりましたが、二人目は昑(クム)と名付けられ延礽君(ヨニングン)の称号が与えられました。後の21代王・英祖です。

一方、廃妃になった閔氏の復活と西人派の巻き返しのため韓重爀、金春澤ら西人派の人々が活動を始めていました。

甲戌換局(ガプスルファングク)・仁顕王后の復活と西人の復権

1694年。金春澤ら西人派の人々が大量に逮捕されました。南人派を倒すため活動をしているという理由です。

崔氏が「妊娠していたとき、張希載(チャン・ヒジェ)が自分を毒殺しようとしているのを聞いた」と訴えてきました。閔黯、張希載は無罪を訴えました。粛宗はその場では閔黯、張希載らは罪には問わないと言いましたが、翌日になって一斉に南人派を逮捕、宮廷から追放しました。捕まっている西人派を釈放しました。

王妃張氏を降格させ、禧嬪に戻しました。閔氏を呼び戻して再び王妃にしました。

この事件を甲戌換局(ガプスルファングク)といいます。南人派は力を失い、西人派と南人派の対立は終わりました。南人派は22代正祖が採用するまで朝廷にはいなくなりました。

老論派と少論派の対立

南人派を追い出すまでは協力していた老論派と少論派ですが。南人派が力を失い西人派の天下になると、老論派と少論派は対立しはじめました。

きっかけは王妃の扱いでした。老論派は仁顕王后を再び王妃するのは当然と主張。少論派は閔氏を王族に戻して離宮に迎えるのは賛成だが、王妃は世子の母である張氏にしておくべきというものでした。仁顕王后が戻るのだから、王妃が二人もいることはできない。張氏が降格するのは仕方ないということで一応の決着はつきましたが、老論派と少論派の対立は残ります。

その後も少論派は禧嬪張氏を王妃にするように訴えました。

少論派は禧嬪張氏と世子を支持。老論派は淑嬪崔氏と延礽君を支持しました。朝廷内で勢力が強かったのは少論派の方です。

1701年。仁顕王后が2年の闘病生活の末、病死しました。仁顕王后の死は新たな問題を引き起こしました。

巫蠱の獄・禧嬪張氏の死と少論派の衰退

次の王妃として少論派は禧嬪張氏を王妃にするよう主張しました。老論派は貴人金氏を王妃にするように主張しました。王の寵愛を受けていたのは淑嬪崔氏でしたが、生まれの身分が低かったので王妃の候補からは除外されていました。

このとき、淑嬪崔氏が粛宗にあることを伝えました。禧嬪張氏が王妃を呪っていたというのです。仁顕王后の兄弟たちも「王妃は生前、”自分の病はおかしい”と言っていた」と粛宗に言いました。仁顕王后の兄弟は呪いがあったのではないかと言いたかったのです。

事実・禧嬪張氏はお堂をたてて祈祷をしていました。世子の病気の回復のためだと言いましたが、粛宗は禧嬪張氏の言葉を信じません。

禧嬪張氏と流刑中の張希載は死罪になり、毒薬を飲み死亡しました。それとともに禧嬪張氏を支持していた少論派も勢力を失います。

禧嬪張氏に死罪を言い渡す前、粛宗は「側室は王妃になれない」という規則を作りました。新しく王妃になったのは16歳の仁元王后金氏(イヌオンワンフ)でした。

少論派は勢力が弱くなったとはいえ健在です。世子をそのままにするように主張しました。老論派は延礽君を世子にするように主張しました。粛宗は悩み続けますが、世子は変えませんでした。

晩年の粛宗

1712年。清との間で国境をどうするかで問題が起こりました。清と交渉して白頭山の頂上に石碑を建てて国境を定めました。

日本には3回朝鮮通信使を送り交渉して日本との貿易を勧めました。鬱陵島(当時は竹島とよばれていました。現在の竹島は当時は松島と呼ばれていました)に日本人が入らないように交渉しました。

1717年。このころから体調を崩し、世子に政治を行わせました(代理清浄)。 

1720年。亡くなりました。享年60。

在位期間は45年10ヶ月。歴代朝鮮王の中でも、英祖(51年7ヶ月)についで2番めに長い在位期間でした。

王族たちの名誉回復に取り組む

粛宗は歴代の王族の中で不幸にも身分を奪われた人たちの身分を回復することも熱心でした。宋時烈ら重臣が意見を出したことも影響していますが、過去の国王の過ちを認める度量ももちあわせていたようです。

2代・定宗を王と認めました。太祖の次に王になった永安大君は長い間、王として認められていませんでした。「太祖と太宗のつなぎの役目をしていただけ。徳のある王ではない」と思われていたのです。だから王としての名前(諱)が付いていませんでした。粛宗は「定宗」の名を贈り2代目の国王と認めました。

6代・端宗の身分を回復しました。魯山君は首陽大君に王位を譲った後、廃位されました。魯山君も王としての名前が付いていませんでした。魯山君を王に戻して「端宗」の名を贈りました。

端宗を復位させるために活動して処刑された死六臣の名誉を回復しました。罪人ではなく、忠臣の扱いをうけることになりました。

16代仁祖の息子・昭顕世子の正室・嬪宮姜氏は仁祖によって王族の身分を剥奪されていました。愍懐嬪という称号を与え王族に戻し名誉を回復しました。

まとめ

ドラマでは女性に翻弄される優柔不断な王だと描かれることがありますが。王の権力を強めるためには容赦なく重臣たちを切り捨てる強さを持っていました。派閥を交代させる手段として王妃を交代させたのではないかともいわれています。

王にとって都合の悪くなった派閥は強制的に交代させるといいう非情で権力の強い王様だと言われます。しかしこのようなやり方は、だれでもできるものではなくこれほど強い王権を持った王は粛宗が最後になりました。

テレビドラマの粛宗

張禧嬪 MBC、1971年 演:パク・グニョン
女熱電 張禧嬪 MBC、1981年 演:ユ・インチョン
仁顯王后  MBC、1988年 演:ガン・ソクオ
妖婦 張禧嬪 SBS、1995年〜1995年 演:イム・ホ
張禧嬪 KBS 、2002年 演:チョン・グァンリョル
茶母 MBC、2003年 演:ソン・オジェドク
トンイ MBC、2010年 演:チ・ジニ
イニョン王妃の男 tvN、2012年 演:ソ・ウジン
馬医 MBC、2012年 演:子役
チャン・オクチョン-愛に生きる SBS、2013年 演:ユ・アイン
テバク・運命の瞬間 SBS、2016年 演:チェ・ミンス


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