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朝鮮 宣祖と壬辰・丁酉戦争(文禄・慶長の役)。国王としてはたした役割とは

1 李氏朝鮮の国王

朝鮮の宣祖(ソンジョ)は李氏朝鮮第14代国王です。

宣祖時代におきた大きな事件は日本と朝鮮の戦争です。

韓国では壬辰戦争(倭乱)・丁酉戦争(再乱)。

日本では朝鮮出兵、文禄・慶長の役と呼ばれます。

この記事では韓国ドラマで描かれる壬辰戦争・丁酉戦争を宣祖の立場から紹介します。

 

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壬辰倭乱・丁酉再乱の意味

この戦争は日本の学会では「文禄の役」「慶長の役」。一般には「朝鮮出兵」と呼び、豊臣秀吉時代の人々は「唐入り」と呼んでいました。

朝鮮・韓国での呼び方

李氏朝鮮時代の人々は壬辰倭乱・丁酉再乱といいました。

「壬辰」「丁酉」というのは年を干支で表現したもの。朝鮮は明から独自の元号の使用を禁止されていたので干支で年を表現するしかありません。

「倭」は日本の古い呼び方です。従順という意味が含まれた日本の呼び方。「倭」という字そのものには差別的な意味はないという人もいますが、歴代の中国や朝鮮など中華思想の人々が蔑称として使っていたことには変わりありません。現代の中国人が「小日本」というのと同じです。古代の日本は漢字の意味をよく理解していなかったので「倭」の字を使っていましたが、途中で「倭」を「みやびではない」と考えるようになって漢字を「大和」にしました。

「乱」は秩序を乱すという意味。

ここでいう秩序とは中華の序列(中華の皇帝が世界一偉くて、中国から離れれば離れるほど野蛮で卑しい)です。

朝鮮からみて中国を上、日本は下の地位と考え。目下の日本が目上の朝鮮に起こした反乱という意味です。

日本は中華の秩序には入っていないので「乱」は適切ではありません。

歴史上、反乱を「◯◯の乱」といいますが、考え方はそれと同じです。

つまり壬辰倭乱は「壬辰の年に小さくて従順であるはずの日本が起こした反乱」という意味です。

差別的な表現なので歴史用語としてはふさわしくないです。でも現在の韓国ではこの言葉を使ってます。

日本人にとっては不愉快な表現です。でも当時の朝鮮の人々がこう呼んでいたのは間違いないので「朝鮮の歴史を紹介するときの用語」として使用します。

さすがに現代の韓国の歴史学者の中にも客観的な呼び方としてはふさわしくないと考え。「壬辰戦争・丁酉戦争」と呼ぶ人もいます。

でも自国中心主義的なマスコミや一般国民は「壬辰倭乱・丁酉再乱」と呼んでいます。日本の研究者の中にもこの言葉を使う人がいますが歴史の理解が足らないのでしょう。

 

日本での呼び方

逆に、当時の日本側の呼び方は「唐入り」です。豊臣秀吉にとっては「唐=明」を服従させるための戦いでした。少なくとも文禄の役ではそうでした。大量の兵力を直接明に上陸させるのは無理なので、できるだけ海路を使わずに明にたどり着ける場所として朝鮮に上陸したのです。

現代では「文禄の役」「慶長の役」といいます。文禄、慶長という年号の時代におきた戦争という意味です。一般には朝鮮出兵といいます。

中国での呼び方

中国での呼び方はとくに決まっていません、中華思想そのままに「壬辰倭乱」と呼ぶこともあれば「萬歴朝鮮之役」とよぶこともあります。
「萬歴朝鮮之役」は萬歴(明の元号)に起きた朝鮮での戦争。という意味です。考え方は日本の「文禄の役」と同じですね。

前置きが長くなりました。

さて、この戦いで宣祖は国王として何をしたのでしょうか。

 

壬辰戦争(文禄の役)

1592年4月12日。対馬に集まっていた日本軍は海を渡りました。

翌日、釜山が陥落。

4月16日早朝。王宮に釜山から日本軍襲来の知らせが届きました。知らせを受けた大臣たちは宣祖に面会を求めました。しかし宣祖は機嫌が悪く、大臣に会いませんでした。国王抜きで対策が話し合われ、宣祖が追認しました。

まずは李鎰を巡察使に任命して慶尚道に派遣しました。しかし兵が集まらずとりあえず60名を派遣してあとで300名派遣することにしました。

左議政・吏曹判書の柳成龍が総司令官となって指揮を取ることになりました。柳成龍は申砬(シン・リプ)をよび援軍の指揮をとらせることにしました。申砬は女真族との戦いで功績をあげていた名将です。

17日。宣祖は申砬に出陣命令を出します。申砬は8000の兵をつれて日本軍迎撃に向かいました。

27日。申砬の軍は忠州で小西行長以下1万8000の兵と戦い敗退。申砬は自害しました。

避難を決める宣祖

28日。宣祖のもとに忠州での敗戦と申砬戦死の報告が届きました。宣祖は信頼していた申砬の戦死に衝撃をうけ、大臣を集め都から避難すると言いました。多くの大臣たちは反対しました。しかし領議政の李山海が他の大臣を説得して避難が決まりました。

現実問題として漢城は防御が弱く兵たちも逃げ出していました。日本軍相手に戦うのは無理がありました。もともと都を守る軍を育てていなかったのです。

咸鏡道と江原道に臨海君と順和君を派遣して義勇兵を集めることになりました。

世子の決定

29日。宣祖に万が一のことがあれば後継者が必要になります。宣祖は大臣たちに迫られ、しかたなく光海君を世子に指名しました。ただしこの時点では明から承認もらっていないので正式な世子ではありません。

都から脱出

宣祖はその日のうちに漢城を脱出。宣祖以下、王妃、側室、王子、大臣、侍女など100名近くが夜明けとともに出発しました。

日が昇り漢城を見ると町から煙や炎が上がっていました。住民たちの放火と略奪が始まっていました。城に入った人々は奴婢の記録を焼くため王宮の書庫に火を放ちました。記録がなくなれば奴婢から解放されると思ったからです。王宮は朝鮮の人々や残された家臣らによって荒らされ財宝・家畜の略奪が行われました。

つまり王宮を焼いたのは日本軍ではなく暴徒になった朝鮮の民衆です。この内容は朝鮮王朝実録に書かれています。

漢城に到着した日本軍は既に焼けている王宮を見て唖然としました。

宣祖は雨でずぶ濡れになりながらの逃避行でした。途中で脱落するものや川を渡れず取り残された者もいて、同行者の数は半分に減っていました。

開城に避難

30日。宣祖は夕方に開城(ケソン)に到着しました。開城では民衆が集まり非難したり泣き叫んだりして騒ぎになりました。

宣祖はしばらく開城に滞在、大臣たちと今後について話し合い人事の刷新を行いました。李山海は西人派に追求されて追放。批判をうけた柳成龍は辞職しました。

宣祖が後宮に入り浸っているところに石を投げつけるものも出ました。護衛の兵が少なく止めるものはいませんでした。住民たちが騒ぐので宣祖自ら門に出て住民たちの騒ぎを沈めようとしたほどです。

5月4日。宣祖は漢城が日本軍に占領されたことを知りました。

漢城は5月2日には抵抗もうけずに占領されていました。開戦してわずか21日のことでした。

宣祖はあわてて開城を出発。

平壌に避難

5月8日に平壌(ピョンヤン)に到着しました。

途中、5月7日には李舜臣(イ・スンシン)率いる朝鮮水軍が日本水軍と戦い勝利しました。これが朝鮮側の初めての勝利です。しかしその知らせも宣祖には届きませんでした。この李舜臣の戦いはよくドラマになります。李舜臣率いる朝鮮水軍の勝因は船に大砲を載せて攻撃したこと。日本の船は火力の小さい輸送船が中心だったので、大砲の攻撃に弱かったのです。よくいわれる亀甲船が実在したかどうか。実在したとしてもどのように使用したのかはわかっていません。

しかし日本軍も増援を送ったり対抗策を編み出したので海上での戦いは膠着状態になります。

漢城奪還作戦

日本軍はすぐには平壌には来ませんでした。宣祖らは日本軍は疲弊していると考えました。

このとき加藤清正らは漢城近郊を流れる臨津江(イムジン川)が渡れずに立ち往生していました。また他の日本軍は朝鮮国王を捕まえることができなかったので次はどうするのか豊臣秀吉の指示を待っていました。そのためしばらく動きがありませんでした。

宣祖は漢城を放棄したのは早すぎたのではないかと後悔し始めます。そこで兵を集め、漢城奪回のため反撃しました。

金命元(キム・ミョンウォン)を総大将にしてイムジン川を渡り対岸の日本軍に攻撃を命じました。

5月18日。臨津江付近で金命元の朝鮮軍と加藤清正の日本軍が戦いました。しかし金命元は敗退。勝てると思っていた宣祖は衝撃を受けます。

宣祖は寵愛している仁嬪金氏の息子・信城君と定遠君を寧辺に逃しました。宣祖は改めて平壌の守りを徹底させます。

亡命を考える・二つの朝廷

この頃には開城も日本軍に占領されました。

宣祖は平壌を放棄します。宣祖は仁嬪金氏をつれて平安道・義州に避難しました。

光海君を臨時の朝廷の代表にして国内を任せました。光海君たちは各地を回り義勇兵を集め抵抗活動をはじめました。

宣祖自身は明の遼東に亡命しようとしました。でも、大臣に説得され亡命をあきらめ明に援軍を求めました。

6月15日。平壌が日本軍に占領されました。

明の援軍到着

7月16日。待ちに待った明の援軍が到着しました。

明と朝鮮の軍は平壌の日本軍を攻撃しましたが敗退。

7月23日。兵を募集するため会寧に行っていた臨海君と順和君が加藤清正に捕まり捕虜になってしまいました。

ヌルハチの援助を断る

8月には女真族のヌルハチが明と朝鮮を支援すると言ってきました。加藤清正は女真族の領地で戦っていました。そのため日本軍は朝鮮と女真族共通の敵になったのです。

しかし宣祖はヌルハチの助けを断りました。野蛮族の助けを受けるのは不名誉なことだからです。

日本軍を騙して時間稼ぎ

8月29日。明の沈惟敬(しん・いけい)と日本の小西行長の間で和議が成立。明の皇帝の返事を待つ期間が必要なので50日の休戦が必要、と決まりました。しかしそれは嘘でした。沈惟敬はその間に本国から増援を送ってもらい日本軍攻撃の準備を進めていました。

宣祖は休戦に反対しました。しかし明が決めたことなのでどうにもなりませんでした。

このころになると各地で義勇軍が日本軍に攻撃を仕掛けていました。朝鮮の正規軍は日本軍との戦いで敗退が続きましたが、ゲリラ戦で挑んだ義勇軍は日本軍を苦しめました。

11月。信城君は寧辺から義州に向かう途中で病死しました。

12月。明から将軍・李如松(り・じょうしょう)率いる4万3千の精鋭部隊と仏狼機砲(フランキ砲)などの大型武器が到着しました。

1月6日。明軍4万。朝鮮軍1万が平壌を占領する小西行長軍に攻撃をかけ翌日、平壌を奪回しました。小西行長軍は平壌を出て退却しました。

ただしこのとき李如松の行った攻撃で朝鮮の民衆に大勢の犠牲がでました。明軍があげた日本兵の首1560のうち、半分は朝鮮人の首を偽装したものだったといいます。

消耗する日本軍

日本軍は急速に戦線を広げすぎたため補給が追いつかなくなりました。朝鮮は春が来れば餓死者がでるというくらい慢性的な食糧不足の国(北朝鮮ではなく李氏朝鮮の話です)。そのため現地調達もなかなかできません。

冬になると日本軍の消耗はさらにひどくなりました。朝鮮の土地は日本の東北地方並みに緯度が高く、大陸性気候のため冷え込みが厳しいです。日本軍は西日本の大名が中心だったこともあり、厳しい朝鮮の寒さにはたえられませんでした。寒さと飢え、病で倒れるものが続出しました。

日本軍は朝鮮半島北部に散らばっていた部隊を漢城に集め明軍を迎え撃つことになりました。

1月26日。漢城に近い碧蹄館(現在の高陽市(コヤン市))付近で李如松率いる明軍2万と宇喜多秀家、小早川隆景率いる日本軍2万が戦いになりました。この戦いで明軍は敗退。李如松は戦意を失い和平を考え始めます。

2月12日。幸州山城(コヤン市)に小西行長、石田三成ら率いる日本軍が攻撃をしかけてきました。権慄(クォン・ユル)率いる朝鮮軍はこれを撃退。朝鮮軍勝利の報告が義州にいる宣祖に届きました。この戦いの勝利も韓国の歴史ではよく取り上げられます。

しかし再び攻撃があると予想した権慄は幸州山城を放棄、金命元に合流しています。

3月。明軍が日本軍の食料貯蔵庫を焼き払いました。漢城の日本軍はただでさえ食料が不足していました。日本軍は食料庫が焼かれたため戦いは無理と判断。和平に応じました。

朝鮮不在で進む和平交渉

明の使節・沈惟敬、日本の小西行長、加藤清正の間で和平交渉が行われました。

宣祖は和平に反対しました。しかし宣祖の意見は無視されました。明と朝鮮の関係では明に主導権があるからです。

この和平では次のことが決められました。
・日本は朝鮮の王子を返し、釜山に撤退すること。
・明は開城に撤退して、日本に使節を送ること。

さらに沈惟敬、小西行長らは本国に嘘の報告を送ります。

明の皇帝には日本が降伏したという連絡を。
日本の豊臣秀吉には明が降伏したという連絡が行きました。

後日、嘘の報告をした沈惟敬は明に戻った後処刑されました。小西行長も秀吉から一度は処刑を命じられましたが助けられて文禄の役にも参加しています。

4月18日。日本軍は漢城を出て釜山に撤退しました。以後、豊臣秀吉が死亡して日本軍が撤退するまで釜山は日本軍が占領したままになります。

宣祖は明軍に日本軍への攻撃を嘆願しましたが無視されました。

休戦期間中の活動

漢城が修復されると宣祖は仁嬪金氏をつれて漢城に戻りました。懿仁王后は呼び戻しませんでした。光海君はひきつづき各地で活動を続けています。

1594年3月。宣祖は朝鮮水軍に釜山の日本軍を攻撃するよう命令。戦闘が行われました。

しかし明から和平交渉の邪魔になるので戦闘を行わないように命令されます。

それでも朝鮮陸・水軍は攻撃をしかけましたが成果は得られません。

1594年8月。宣祖は職務怠慢を理由に李舜臣を解雇しました。元均(ウォン・ギュン)を水軍の司令に命じました。

李舜臣は東人派と親しく。元均は東人の強硬派と西人から支持を得ていました。派閥争いの結果、水軍のトップが入れ替わりました。

丁酉戦争(慶長の役)

明の使節と日本の交渉は決裂。

1597年。豊臣秀吉は再び朝鮮への出兵を命令しました。

秀吉は一回目の朝鮮出兵(文禄の役)の目的は明でした。しかし二回目の出兵(慶長の役)では朝鮮半島の南にある全羅道・忠清道とその周辺を領地にすることを目指しました。これらの地域は秀吉が和平交渉で求めた条件だったからです。

もちろん朝鮮と明は領地を奪われるわけにはいきません。宣祖は明から新たな援軍を迎え入れ10万の明軍とともに対抗しました。

宣祖の避難

全羅道・忠清道は日本軍に占領され漢城にも迫る勢いでした。漢城はパニックになり重臣たちは避難を進言、宣祖は仁嬪金氏らをつれて避難しました。

占領地を巡る攻防が続く

しかし日本軍の動きは途中で止まりました。朝鮮では日本軍が攻めて来ない理由がわかりませんでした。日本軍は占領地域に城を作り始めました。占領地の守りに入った日本軍と、取り戻そうとする朝鮮・明軍の間で戦いが続きました。

豊臣秀吉の死亡と終戦

1598年8月。豊臣秀吉が死亡。日本と明の間で和平が成立して日本軍は撤退をはじめました。日本側も秀吉の死後、朝鮮にとどまるのは無意味だと考えていたからです。

日本軍の撤退と露梁海戦

しかし宣祖以下朝鮮と明軍は恨みを晴らすのはこの時ばかりと日本軍の撤退を妨害しました。

和平が成立しているにも関わらず撤退する日本軍を攻撃しました。ここでも朝鮮・明軍は約束を守りませんでした。

この戦いで朝鮮・明・日本共に大きな被害が出ました(韓国や中国のドラマでは朝鮮・明軍の大勝利として描かれます)。朝鮮軍では李舜臣や指揮官クラスの武将にも戦死者が続出しました。

日本軍の撤退は11月には完了しました。

 

宣祖の果たした役割

この戦いで宣祖の功績は明に援軍を求めたことくらいでした。戦前の外交でも日本をバカにしていました。日本が大陸に渡る意思があると聞いても迎え撃つ準備をしていません。戦が始まると早々と避難し、明に助けを求めました。

光海君は各地で義勇兵を鼓舞しながら戦い、人々の支持を集めます。宣祖は光海君を疎ましく思うようになりました。

朝鮮は明に助けを求めましたが明軍の食料、兵士の相手をする女性は朝鮮が用意しました。また明軍兵士による略奪や虐殺も起こり、朝鮮の民衆にとっては日本と明の両方が敵になってしまいました。

それでも宣祖にとって明は助けてくれた恩人でした。実際に宣祖と大臣達は明の将軍・李如松を救国の恩人と称し李如松の死後、朝鮮国内で祀りました。しかし李如松が朝鮮国内で行った虐殺のため朝鮮国民からは快く思われていませんでした。

義勇兵として戦った兵士は多くが賤民でした。戦いの間、光海君に官職を与えられた者もいます。しかし戦争の後。宣祖は義勇兵に与えられた官職を剥奪し、賤民に戻しました。戦いで功績の挙げた武将も多くが謀反の疑いをかけられて失脚します。李舜臣も戦死しなければ謀反人にされたことでしょう。生き残った者で宣祖以上に手柄を立てたものがいては困るからです。

この戦いの後、明に対する恩義・忠誠心はさらに強まります。

日本に勝てたのは明のおかげ
明を戦いに参加させたのは宣祖の功績

という理屈です。この考えがやがて光海君の失脚と清への屈辱的な服従につながります。

 

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