李麟佐(イ・インジャ) テバク 影の主人公は英祖に反乱を起こした過激な少論派

2017年10月4日

韓流時代劇「テバク」でチョン・グァンリルの演じた「イ・インジャ」は実在の人物。

英祖に対して反乱を起こした少論派の重臣です。英祖と仲の悪かった少論派でもとくに過激な思想の持ち主でした。

史実の李麟佐(イ・インジャ)はどんな人物だったのか紹介します。

 

李麟佐(イ・インジャ)の史実

いつの時代の人?

生年月日:1694年
没年月日:1728年

名前:李麟佐(イ・インジャ)

彼は朝鮮王朝(李氏朝鮮)の主に19代粛宗~21代英祖の時代です。

日本では江戸時代の人になります。

イ・インジャの生涯

4代国王・世宗の四男、臨瀛大君(イムヨウンテグン)の子孫です。

李麟佐(イ・インジャ)は少論派の一員でした。

少論派は西人派が分裂した派閥

少論派は西人派から分裂した派閥です。西人派はかつて禧嬪張氏を王妃にしようとする南人派と争い敗退しました。、最終的には西人派が勝ち仁顕王后王后が戻ってきました。しかし、王の後継者を誰にするかで西人派が分裂してしまいました。少論派と老論派です。

禧嬪張氏の息子で既に世子になっていた昀(景宗)を王にしようとしたのが少論派。

淑嬪崔氏の息子・昑(英祖)を王にしようとしたのが老論派です。

イ・インジャは少論派の重臣。英祖の時代には少論派のリーダー的存在になっていました。

辛壬士禍

景宗即位1年後の1721~1722年の間に少論派と老論派の対立が起こりました。

このとき景宗を支持していた少論派が勝ち、多くの老論派が処刑されました。これを辛壬士禍といいます。

イ・インジャはこの辛壬士禍で少論派の一員として活動し、大きく勢力を伸ばしました。

ところが景宗が死に、英祖が即位します。

少論派は「英祖が景宗を毒殺した」とか「英祖は粛宗の息子ではない。淑嬪崔氏と金春澤の息子だ」などの噂を流しました。

英祖は対立する少論派を処分しました。

老論派が再び力をつけて少論派が没落。イ・インジャは解雇されました。

しかしイ・インジャはあきらめません。密かに少論派を集め反乱を起こすことにしました。

李麟佐の乱

1728年3月。イ・インジャたちは密豊君を担ぎ出して反乱を起こしました。

密豊君は昭顕世子の三男慶安君の孫です。

イ・インジャは清州を襲って兵馬節度使イ・ボンサンを殺害。兵士を集めました。イ・インジャは自ら「大元帥」と名乗って反乱を呼びかけます。

その内容は「景宗の死は自然なものではない、凶悪な者たち(英祖と老論派)によって毒殺された。ヨニングンは粛宗の王子ではないので、王大妃の密命を受けて昭顕世子の子孫である慶安君を王にたて王統を正しくする」というものでした。

このときの王大妃・仁元大妃は英祖を保護した大妃なので密命が出るはずがありません。イ・インジャのでっちあげでした。

イ・インジャの乱ではイ・インジャと反乱を起こした者は喪服を意味する白い服を来て戦いました。

ところが仲間の少論派・崔奎瑞(チェ・ギュテ)がイ・インジャの計画を朝廷に密告してしまいまいました。イ・インジャたちの計画はばれてしまいました。

英祖は呉命恒(オ・ミョンハン)を兵曹判書に任命して官軍を派遣。イ・インジャたち反乱軍を鎮圧しました。イ・インジャは捕らえられ漢陽(ソウル)に送られ処刑されました(自決したという説もあります)。

この事件を李麟佐の乱、戊申乱、反乱の舞台となった慶尚道(嶺南)の名をとって嶺南乱ともいいます。

イ・インジャたちの反乱はわずか6日で鎮圧されました。しかし短い期間とはいえ、清州とその周辺が制圧され、英祖や老論派に大きな衝撃を与えました。

インジャの乱に加担していた少論派と南人派は多くが処分されました。結果的に少論派と南人派は大きなダメージを受けて派閥としての力を失います。

反乱の舞台となった慶尚道の人は50年の間「科挙を受けられない」という差別を受けることになります。これは英祖や老論派がひどいわけではなく朝鮮ではあたりまえのことなんです。高麗時代より反乱軍の出た地域の人々が差別されるのはよくあることでした。

王に逆らって反乱を起こし、地域差別の原因にまで作ったイ・インジャ。過激な思想の持ち主だったようです。

テレビドラマ

テバク 2016年 SBS 演:チョン・グァンリル

イ・インジャの登場するドラマといえば「テバク」。
チョン・グァンリル演じるイ・インジャが主人公ではないかと思うくらい目立っています。


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