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秘密の扉 で描かれた貰冊店、朝鮮の貸本事情

e ドラマが分かる歴史の知識

韓国時代劇「秘密の扉」には”貸本”が登場します。貸本業が大きな題材になってます。

ドラマの中では庶民がハングルで書かれた小説を読んでる様子が描かれます。

李氏朝鮮時代の貸本とはどんなものだったのか紹介します。

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貸本業とは

まず貸本とは何でしょうか?

客に本を貸してお金をもらう商売です。現代のレンタルビデオと同じです。

印刷技術が発達していない時代は、本はとても高価な物です。だから手軽に買うことはできません。一冊の本を何人もで回し読みするのです。

日本でも江戸時代から戦後にかけては貸本業がありました。

李氏朝鮮では英祖から正祖の時代に貸本業が盛んになります。丁度ドラマの時代です。

英祖の時代に貸本屋登場

英祖から正祖の時代は朝鮮の社会が安定し、貨幣経済も浸透しつつあったので娯楽を楽しむ人々が出てきました。

英祖より前の時代は本といえば両班が読む漢字の本ばかり。古代中国の古典や科挙の参考書、学問のための本ばかりでした。

英祖から正祖の時代は中国の小説が翻訳されたり、朝鮮国内で小説が作られたりして徐々に娯楽としての本が出始めた時期でした。

この時代、貰冊店(セクチェチョム)という商売が登場しました。貸本屋です。貰冊店で扱っているのはおもに娯楽の本です。

貰冊店登場以前の娯楽

貰冊店が登場する以前にも、諺文(オンムン=ハングル)で書かれた小説はありました。しかし本はとても高価なので裕福な人しか買えまえん。

書物は高価です。そこで諺文の本を読むのは裕福な家庭の女性だけでした。一冊の本を回し読みしていました。自分で書き写して読むこともありました。そのため、とても時間がかかります。

そこで、講談師が登場しました。本の内容を喋って人に聞かせる人です。ドラマでは町中で、人々の前で調子よく物語を喋っている人をみることがあります。あれが朝鮮の講談師です。

でも講談師はどこにでもいるわけではありません。しかも講談師は男です。女性が気軽に出かけて話を聞くことは出来ません。厳しく儒教を守っている朝鮮では裕福な家・身分の高い女性はむやみに外を出歩いてはいけないのです。女性が講談師の話をきくことはあまりありません。

そこで登場したのが貰冊店です。

貸本を楽しんだのは誰?

貸本についての記録は殆どありません。いつ始まって、どのような形で本を貸し出していたのかも不明です。

「秘密の扉」の貸本業の姿はあくまでもドラマの演出です。

少ない記録からわかることは、貰冊店は18世紀(つまり英祖の時代)には繁盛していたといわれます。もしかするともう少し前の時代、粛宗の時代あたりから存在はしていたのかもしれません。

裕福な女性の娯楽

18世紀の学者イ・ハクキュは「絹の衣を纏った女がハングルの小説を読む」と書いています。

18世紀の文官チェ・ジェゴン
「婦女子達の間で物語を読むことが流行っている。婦女子らは見識もなく簪(カンザシ)や腕輪を売ったり、銅線を借りたりして、争って借り、長い日の暇つぶしにしている」と書いています。

チェ・ジェゴンは「秘密の扉」で世子イ・ソンの側近として登場する人物。

頭のいい文官の書いた記録なのでやや批判めかして書いてますが。女性たちの間で本を読むのが流行ってることがわかります。だからといってドラマみたいに規制しているわけではないようです。

ただし小説を読んでいるのは、絹を来た女性、簪や腕輪をしている女性です。

つまり両班かお金持ちの家の女性が読んでいる。ということですね。

両班の男は中国の古典を読むことが教養のある証拠だと思っていたので、諺文の本は読みません。

貸本は庶民の娯楽として広まっていたわけではありません。庶民は講談師の話を楽しみにしていたようです。

また、イ・ドンムが1775年に書いた記録では。
「婦女子が家事を放棄して、金を支払って借りた小説を読んだため家産が傾いた」とも書いてます。

貸本を借りすぎたせいで家計が傾き破産しそうになったようです。貸本はそのくらい高価だったようです。

1775年といえば英祖が死亡する前の年です。

貰冊店がある都市は限られる

1894年発行のモリス・クランの著書には「漢城(ソウル)以外の松都(開城)、大邸、平壌のような都市には貰冊店が存在しない」とも書いています。

つまり、貰冊店は漢城(ソウル)にしかなかったのです。

松都は商売の盛んな都市です。大邸、平壌も朝鮮有数の都会だったでしょう。しかし貰冊店はなかったようです。

1894年といえば明治15年。李氏朝鮮では高宗の時代です。ドラマで言えば「客主」「朝鮮ガンマン」のあたり。

英祖より100年あとの時代になってもあまり普及していないようです。

こうして残された記録から見る限りでは、貸本は庶民の娯楽とはいえなかったようです。都に住む裕福な家の女性の楽しみだったようです。

そもそも文字が読める人は限られるのですから、本を読むこと自体が教養のある人に限られてしまいますよね。

4代世宗が作った訓民正音(古ハングル)ですが、当初から諺文(恥ずかしい文字)と呼ばれなかなか普及しませんでした。

さらに10代燕山君、11代中宗の時代に国家としての諺文の普及活動を止めてしまいました。その後は王宮内の私的な文書と民間レベルでの普及にとどまっています。ただし方言のように地方での使い方に差ができてしまいます。

ハングル(大いなる文字)という呼び方は李氏朝鮮末期、開化派の人々によって考案されたといいます。ハングルの普及が進むのはその後です。

そうした事情もあまり貸本が普及しなかった原因かもしれません。

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