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朝鮮 景宗・若くして世を去った禧嬪張氏の息子イ・ユン

1 李氏朝鮮の国王

景宗は李氏朝鮮の第20代国王です。在位期間は4年と短く、粛宗と英祖という在位期間の長い王に挟まれたせいか、ドラマでもあまり目立つ存在ではありません。

世子「李昀(イ・ユン)」として登場することが多いです。

李昀(イ・ユン)は早くに世子になりながら廃妃になった禧嬪張氏の息子なので冷たい視線を浴びていました。重臣たちの派閥争いの激しい時代を生きることになりました。王になった景宗は跡継ぎの問題にも悩まされます。

史実の景宗はどんな人物だったのか紹介します。

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景宗(キョンジョン、けいそう)の史実

いつの時代の人?

生年月日:1688年11月20日
没年月日:1724年10月11日

名前:李昀(イ・ユン、り・いん)
廟号:景宗(キョンジョン、けいそう)
父:粛宗
母:禧嬪張氏
正室:
端懿王后(世子嬪のまま死去)
宣懿王后

子供:なし

彼は朝鮮王朝(李氏朝鮮)の20代国王です。

日本では江戸時代の人になります。

おいたち

1688年(粛宗15年)。李氏朝鮮19代国王・粛宗と禧嬪張氏(当時は昭儀)との間に昀(ユン)は産まれました。

長い間子供ができず、はじめての男児に粛宗は大変喜びました。産まれて2ヶ月。側室の子であるにもかかわらず、昀(ユン)を元子(後継者)にしようとしました。

王妃交代に発展した己巳換局(きしかんきょく)

西人派重臣は王妃がまだ若いという理由で反対しました。粛宗は反対する重臣を粛清。かわりに南人派を登用しました。その影響で仁顕王后が廃妃になり、禧嬪張氏が王妃になりました。

この事件を己巳換局(きしかんきょく)といいます。

1690年(粛宗17年)。3歳で世子になりました。

1694年(粛宗21年)。母・王妃張氏が禧嬪に降格。仁顕王后が復帰しました。南人派が没落します。叔父・張希載(チャン・ヒジェ)が流刑になりました。

世子の母・禧嬪張氏の処遇を巡って西人派が老論と少論に分裂。

張氏を王妃のままにしておくべきと主張する少論と反対する老論派にわかれました。

1701年(粛宗28年)。13歳の時。母・禧嬪張氏が仁顕王后を呪っていたとして告発されました。禧嬪張氏は粛宗の命令で死薬を飲み死亡しました。流刑になっていた張希載は死罪になりました。この事件を蠱毒の獄(こどくのごく)といいます。

禧嬪張氏が死亡した日。世子は、母を助けてくれるように重臣たちにすがりつきましたが、重臣たちは昀(ユン)の訴えを無視しました。

老論派の重臣たちは、世子をこのままにしておくと母の復讐のために燕山君のようになると言って世子の廃位を訴えました。

老論派は淑嬪崔氏の産んだ延礽君(ヨニングン)を支持するようになりました。

昀(ユン)は幼い頃から病弱でした。母の死によって精神的に追い詰められさらに体調を崩すようになったといわれます。

1717年(粛宗34年)。病で寝込むようになった粛宗にかわり、代理聴政を行いました。

少論派は、老論派が世子の代理聴政を認めたのは問題があればそれを口実に失脚させようと考えていたからだと受け取りました。

しかし昀は問題なく代理聴政を行いました。

1720年(粛宗46年)。粛宗が死亡。昀が即位しました。20代国王・景宗の誕生です。

景宗の即位

景宗の即位後、禧嬪張氏に追尊するか問題になりました。老論は反対します。禧嬪張氏に玉山府大嬪の称号は与えられました。しかし王妃に追尊することはできませんでした。

延礽君を世弟にする

老論は延礽君を世弟にするように求めてきました。景宗は子供はいませんでした。

仁元大妃(粛宗の継妃)も望んでいるといわれ、景宗は延礽君を世弟に認めました。

この決定に少論は反発しました。王を脅迫した重臣たちを処罰するように訴えました。しかし老論の反撃にあい、訴えた少論派は処罰されました。

延礽君が世弟になって2ヶ月後。老論派の張聖復が延礽君に代理聴政をさせるよう訴えました。

景宗は病気がちでしたが政務ができないほど重病ではありません。しかも34歳とまだ若いです。

ところが景宗は「10年らいの病気があり回復する見込みはない」と病気を理由にその日のうちにあっさりと認めてしまいました。

少論に弾劾を起こさせるためにあえて認めたといわれます。

景宗の思惑通り、少論派は激怒して訴えを起こし代理聴政の撤回をもとめました。

少論派の訴えを聞いた景宗は代理聴政を撤回します。

ところがその6日後にまた代理聴政を命じました。

しかし今度は老論が撤回を求めてきました。

老論派は代理聴政するように求めていたはずなのに今度は撤回を求めています。

老論派は景宗が何を企んでいると考えたのでしょう。

少論と老論がともに代理聴政の撤回をもとめる異常事態でした。

けっきょく景宗は代理聴政の撤回を決めました。これが景宗の思惑通りだったとしたら、頭のいい王だったことになります。

その後、少論派は老論派が朝廷に混乱をもたらしたと訴えました。金昌集(キム・チャンチプ)など主要な重臣が死刑になったり流刑になりました。

少論派は朝廷を牛耳ることに成功しました。

その後、景宗は病弱だったものの政治を続けました。

景宗の死

1724年8月。蟹醤(かにの醤油漬け)と柿を食べた後、下痢を起こしました。

景宗は休めば治ると思ったようです。しばらく安静にしていましたが、下痢は治まりません。さらに悪化します。

景宗はそれでも政治を続けました。

延礽君と大臣を療養中の宮殿に呼び、大臣の話を聞きながら指示を出していました。ところが、しだいに声が小さくなっていきました。

医官の出した薬を飲みましたが良くなりません。延礽君が人参茶の服用を進めました。医官は反対しましたが、景宗はいわれるまま飲みました。すると景宗は視点が定まるようになり、いくぶん症状も回復しました。

しかし翌日。死亡しました

蟹と柿は食べ合わせが悪いものとされました。延礽君と老論派が毒殺したのだという噂が流れます。噂を流したのは少論派でした。

景宗の即位期間は4年と短く、老論と少論の対立ばかり起こっていました。めだった業績がないのは仕方のないことかもしれません。

しかし早すぎる景宗の死は様々な憶測をよび、英祖時代の反乱(イ・インジャの乱)に繋がります。

テレビドラマ

チャン・ヒビン KBS 2002年 演:イ・スンヒョン
トンイ MBC 2010年 演:ユン・チャン
テバク SBS 2016年 演:ヒョヌ

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