金 玉均(キム・オッキュン)朝鮮の近代化を目指した革命家

2017年12月11日

 

金 玉均(キム・オッキュン)は李氏朝鮮末期の政治家。朝鮮ではいちはやく、文明開化の必要性を感じて国を改革しようとした人物でした。

しかし金玉均の試みは失敗し日本に亡命。朝鮮からは追われる身となります。最後は朝鮮の暗殺者に殺害されました。

韓国では、かつて日本と通じた裏切り者的イメージで語られることの多い金玉均。

史実の金 玉均(キム・オッキュン)はどんな人物だったのか紹介します。

金 玉均(キム・オッキュン)の史実

いつの時代の人?

生年月日:1851年2月23日
没年月日:1894年3月28日

名前:金 玉均(キム・オッキュン、きん・ぎょくきん)
号:古愚(コウ)
父:金炳台
母:恩津宋氏

彼は朝鮮王朝(李氏朝鮮)末期。25代高宗の時代です。

日本では明治時代になります。

おいたち

1851年。忠清南道公州に産まれました。

幼い頃から文章、絵画、音楽に興味を学びました。

6歳の頃、地方長官などを歴任していた金炳基(キム・ヒョンギ)の養子になりました。以後は科挙の勉強に専念することになります。

1870年。朴珪寿の門下生になりました。朴珪寿は興宣大院君の信頼が厚い重臣でした。朴珪寿の屋敷には日本から取り寄せた地球儀、望遠鏡、万華鏡など不思議な物、日本や清から取り寄せた書物などががありました。西洋を含む世界の地理や情勢を知ることがきました。

金 玉均は朝鮮国内では珍しい最新の知識と技術に触れました。高宗の義弟・朴泳孝、明成王妃の息子・閔泳翊、兪吉濬などとともに学び、朝鮮の未来を語り合ったといいます。

役人となり日本と交流を深める

1872年。科挙に首席合格。成均館の典籍になりました。

当時、日本と朝鮮は江華島条約を結びました。これは朝鮮にとっては不平等条約でした。

1872年2月。開化派の青年たちは国の自主独立、改革の必要性を感じて秘密結社の設立を決意しました。しかし見つかって処罰されないように密かに計画は進められました。

1881年12月。日本の文化と制度を学ぶため使節を派遣するように高宗を説得。紳士遊覧団(現在の韓国では調査視察団と呼びます)を組織。

1882年2月。金 玉均は仲間とともに日本に渡りました。金 玉均は長崎の造船所、精錬所、炭鉱などを視察、神戸、大阪、京都をヘて東京に到着。福沢諭吉のもとで4ヶ月滞在。福沢諭吉の紹介で日本の財界人たちと会いました。朝鮮の将来を考え、日本の思惑を知ろうと努力しました。

6月。朝鮮で壬午軍乱(朝鮮軍の兵士と興宣大院君が閔氏政権に起こした反乱)が起きたという知らせが届き、急きょ帰国することになりました。

7月。反乱の終結後、明成王后が復帰すると開化派の発言力は高まりました。

壬午軍乱では日本公使館が襲われ朝鮮軍の教育をしていた日本人が殺されました。それに対し日本政府は朝鮮に賠償を求め済物浦条約が結ばれました。

1882年10月。金玉均は、済物浦条約にもとづいて謝罪に向かう朴泳孝の一行に加わり、再び日本に行きました。

朴泳孝は日本で手厚いもてなしを受けます。日本の発展を目にした朴泳孝らは帰国後、開国の必要性を感じることになります。

朴泳孝は11月に帰国しましたが、金玉均は日本に残りました。福沢諭吉らと交流を重ね朝鮮初の新聞「漢城旬報」の制作に協力しました。日本滞在中に、塩・酒・タバコの専売制度を知り朝鮮にも導入しようと考えました。

1883年3月帰国しました。

帰国後の左遷

帰国後、身分制度の廃止、人材の公平な登用、王室と国の財政を分けること、無償で与えられていた土地に税をかけることを訴えました。産業や商業、農業、林業、業業の発展を訴えました。国防力を高め、警察権と裁判権の分離を主張します。しかし、自分たちの利益を優先する重臣たち(守旧派)に無視されます。

当時の朝鮮は清の支配下にあり、独自の開国路線は不可能な状態でした。

東南諸島開拓使兼管捕鯨使という役職についたものの、事実上の左遷でした。それでも金玉均は役目を果たし、鬱陵島(ウルルン島)に漁民を住まわせ無人島化を防ぎました。

1883年。財政問題を解決するため、清からドイツ人のムェルレンドルプが派遣されました。ムェルレンドルプは貨幣の質を落として大量発行を提案(當五銭)。金玉均は、財政再建どころが物価が暴落して民心が離反すると上訴しました。

守旧派によって當五銭は発行され、金玉均の予想通り物価は暴落しました。

資金調達の失敗

清の影響力が強くなるのを警戒した日本は金玉均を通じて高宗の委任状さえあれば朝鮮に借款することを提案。高宗は交渉のため金玉均を日本に派遣しました。

それを知ったムェルレンドルプと守旧派は、開化派が秘密資金をつくろうとしていると噂を流し、高宗に日本から資金提供を受けることを中止するように求めました。また、日本の竹添進一郞には金玉均の持っている委任状は偽物だと情報を流しました。高宗も日本も守旧派の言葉を信じてしまいました。

金玉均は日本で交渉の席につきましたが、日本政府は借款を拒否しました。

日本政府から借金できなくなった金玉均は民間からの資金調達を試みますが、朝鮮政府は国際信用がなかったので資金調達は失敗します。

1884年2月。帰国後、なぜ資金調達が失敗したのか理由を知り激怒しました。

開化派の挫折

開国派の朴泳孝が進めていた軍隊の強化も資金不足と閔氏一族位の妨害により中断。朴泳孝の部隊は解体され閔泳煥の部隊に吸収されました。

開化派が主張して設立した漢城旬報も廃刊の危機にありました。朝鮮国内にいた清軍の横暴を報道しましたが、清から圧力がかかり、日本人スタッフが追い出されました。資金もふそくしがちになりました。

資金調達の失敗を追求され金玉均は、開国派からも批判され、守旧派からは命を狙われました。金玉均は辞職して地方に引きこもりました。

清の圧力と、ムェルレンドルプと守旧派の妨害で、まともにやっていたのでは改革が不可能だと考え、革命を起こそうと考え始めました。

甲申事変

1884年8月。清はベトナムを巡ってフランスと戦争になりました。朝鮮国内にいる清軍は数が減り。半分になっていました。

開化派が動員できる兵力は2100ほど。清や朝鮮の兵力には及びません。日本軍の協力が必要でした。

金玉均は竹添進一郞に、資金調達の失敗について講義し、朝鮮の改革を力説しました。竹添進一郞もムェルレンドルプの策にはまったことを認め、金玉均に協力すると約束しました。

9月。金玉均は本格的な準備に入りました。
10月。再び竹添進一郞に会い、クーデターに協力をとりつけました。竹添進一郞とかわした約束はこのようなものでした。

・開化派を団結させ、政変をおこすこと。
・高宗を説得して、政変の承認をえること。
・清の干渉は日本軍が防ぐ。

10月5日。金玉均は高宗に会い、政変の同意を取り付けました。閔氏一族が要職を独占して王が操り人形になっていること。新しい政府を作り改革をすることを説明しました。高宗は金玉均の考えに感動しました。金玉均は高宗から政変の承認を得ました。アメリカ公使にも政変があることを伝え協力を求めました。

1884年10月17日。郵便局の落成式にあわせクーデターが決行されました。竹添進一郞のひきいる日本軍の協力を得て守旧派の重臣を殺害。クーデターを成功させました。

3日で終わった新政府

10月18日。開化派は新しい人事や政策を発表しました。

明成王后は、竹添進一郞に対して宮殿を移りたいと要求しました。竹添進一郞はこれを認め、明成王后を宮殿の外に出します。

ところが明成王后は清に援軍を求めました。あとで知った金玉均は、竹添進一郞に講義しましたが手遅れでした。

しかし、閔氏勢力が清を呼び戻しました。

19日。清軍が到着、宮殿の門で戦闘が起こります。

一旦は、戦闘は収まりましたが、到着した清の部隊は日本軍を上回る兵力でした。

王宮の外に清軍、王宮の中に日本軍が守ることで一旦は合意。

21日。清軍は王の身柄保護の名目で宮殿内に突入。再び戦闘が始まりましたが、兵力の差は大きく日本軍は敗退。

清軍は高宗の身柄を確保。

金玉均は日本軍とともに逃走。済物浦に停泊中の千歳丸に乗船しました。金玉均たちは日本に亡命しました。

日本亡命後

井上薫は朝鮮からの暗殺の危険があるため、金玉均らの名前をかえさせました。金玉均は岩田周作と名前を変えました。

日本では最初は福沢諭吉らに世話になりましたが、いつまでも迷惑はかけられないと借家をかりて暮らしました。

その間も朝鮮は日本に金玉均らの身柄の引き渡しを求めてきましたが、日本政府は拒否しました。

甲申事変の後も朝鮮は清の支配下にありました。さらに、イギリス、ロシアが朝鮮に介入しようと問題が起きていました。日本政府はこの時期は朝鮮から手を引いていました。

金玉均の存在は外交問題となり、日本政府は金玉均に住居を提供していましたが、扱いには困るようになりました。外務大臣の井上薫は金玉均に会おうとしません。金玉均は「裏切られた」と怒っていたようです。

金玉均の存在はたびたび外交問題になりました。

金玉均が日本国内の支持者とともに武装して朝鮮を攻める気だという噂まで流れました。清をまきこんだ外交問題になりました。日本政府内では国外追放してはどうかという意見も出ましたが、井上馨や福沢諭吉らの反対で国外追放は免れました。

朝鮮から何度も暗殺者が送られてきます。いずれも暗殺は失敗しました。

金玉均は身辺警護の強化を求めましたが、政府は日本から出て欲しいとの意向を伝えました。金玉均は井上に抗議、高宗への上訴文や清に講義する書簡を新聞に公開しました。その件がもとで、金玉均は逮捕され小笠原に送られました。
1888年。札幌に移されました。
1890年。釈放されて東京に戻ってきます。

やがて、金玉均は清に渡ろうと決意します。福沢諭吉や支持者は清に行くのは危険だといいましたが「虎穴に入らずんば虎子を得ず」と言い、行く決心を変えませんでした。

1894年。日本滞在中に知り合った洪鐘宇、和田延次郎とともに清に渡りました。

しかし清に滞在中、和田が用で離れている間に洪鐘宇に銃撃され金玉均は命を落としました。洪鐘宇は閔氏派の刺客だったのです。

現代の韓国では裏切り者扱いされることもある金玉均。評価する人によってかなり好き嫌いの別れる人物です。しかし現実の彼は朝鮮の未来を憂い近代化を進め、古い李氏朝鮮を変えなければいけないと考えていた人物だったのでしょう。

 ドラマの金 玉均

 風雲 MBC 1982 シン・ドンフン
朝鮮王朝500年大院君 MBC 1990 キム・ドンヒョン
きらびやかな人  1995年 KBS チョン・ボソク 
明成皇后 2001年 KBS イビョンウク-
済衆院 2010年 SBS ユ・テウン  
朝鮮ガンマン 2014年 KBS ユン・フイソク


PAGE TOP