高麗7代国王・穆宗は千秋太后の息子

2017年7月8日

高麗王朝第7代国王・穆宗は千秋太后の息子です。18歳で即位しましたが、母・千秋太后が摂政となりました。千秋太后と母の愛人・金致陽によって権力を握られ、思うような政治ができませんでした。金致陽は康兆(カン・ジョ)によって排除されますが、穆宗自身も王位を追われてしまいます。

穆宗の史実

いつの時代の人?

生年月日:980年7月5日
没年月日:1009年3月2日

名前:王訟(ワン・ソン)
称号:穆宗
即位前の称号:開寧君(ケリョングン)
父:景宗
母:献哀王后(千秋太后)
王妃:宣正王后 劉氏
側室:邀石宅宮人 金氏
子供:なし

彼が生きたのは980年~1009年。主に高麗王朝7代国王です。
日本では平安時代の人になります。

おいたち

父は第5代国王景宗。
母は献哀王后です。千秋太后ともいいます。

生まれて1歳のときに父・景宗が亡くなりました。伯父の成宗にひきとられ王宮で育ちました。

景宗には息子がいなかったので、開寧君(ケリョングン)の称号を与えられ後継者として育てられました。

母・献哀王后と親族の金致陽(キム・チヤン)の関係が問題となり、成宗によって金致陽が追放されました。

997年。成宗が死去すると7代国王になりました。18歳でした。母・献哀王太后が摂政になりました。献哀王太后は千秋宮で暮らしたので千秋太后とよばれました。千秋太后は流罪になっていた金致陽を呼び戻して官職に付けました。穆宗は即位したものの、政治は千秋太后と金致陽に牛耳られていました。

即位後、成宗と 文徳王后劉氏の娘・宣正王后 劉氏と結婚しました。

2番めの后・邀石宅宮人 金氏は女官出身。新羅王族の末裔と名乗ったといいます。のちに流罪になりました。

二人の王妃との間には子供はいませんでした。

千秋太后が摂政を行なったのは997年から999年の間だったといわれます。999年以降は金致陽が政治の権力を握りました。

金致陽らに実権を握られた穆宗は政治に興味を失いました。庾行簡と同性愛の関係だったといいます。

1003年。子供のなかった穆宗は甥の王詢(後の顕宗)を後継者にしようと大良院君の称号を与えました。

1003年ごろ。千秋太后と金致陽の間に子供が生まれます。

1006年。千秋太后と金致陽は大良院君を出家させてしまいます。

1009年。病気がちになった穆宗にかわり千秋太后と金致陽は二人の子供を穆宗の次の王にしようとしました。穆宗はその企みを見抜くと、西北面巡検使の康兆(カン・ジョ)を呼び戻して大良院君を守らせました。康兆は金致陽たちを殺害、千秋太后を追放しました。ところが、穆宗は康兆によって廃位させられました。康兆は大良院君を第8代国王・顕宗にしました。

穆宗は幽閉先に送られる途中に康兆の部下によって殺害されました。

テレビドラマ

千秋太后 KBS、2009年、演:イ・イム、子供時代:パク・チビン)


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