PR

李元翼(イ・ウォニク)宣祖・光海君・仁祖に仕えた温厚な重臣

5 李氏朝鮮の重臣

李元翼(イ・ウォニク)は李氏朝鮮の重臣です。宣祖、光海君、仁祖に仕えました。

悪いと思ったことには王が相手でも反対し、南人派でありながら、良いと思ったことには党派を超えて協力する当時としては柔軟な考えの持ち主でした。

宣祖、光海君、仁祖の時代を扱った韓国ドラマは数多いのですが、李元翼(イ・ウォニク)は意外なほど登場しません。

日本で知られているドラマでは「華政」「王の女」くらいでしょうか。「王の顔」の最後に名前だけ登場するくらいです。

ドラマではクセが強く陰謀を企む重臣や私利私欲に走る重臣がよく登場します。温厚な性格で、どちらかというと良識派の重臣。領議政などの要職を勤めることが多かったのですが、かといて大きな力を持っていたわけでもない。

ドラマの人物としては登場させづらいのかもしれません。

史実の李元翼(イ・ウォニク)はどんな人物だったのか紹介します。

 

PR

李元翼(イ・ウォニク)の史実

いつの時代の人?

生年月日:1547年12月5日
没年月日:1634年2月26日

名前:李元翼(イ・ウォニク)
号:梧里(アヒル)
父:李億載
母:鄭氏
妻:鄭氏

子供
李儀傳
順興安氏

彼が生きたのは朝鮮王朝(李氏朝鮮)の主に14代宣祖~16代仁祖の時代です。

日本では戦国時代から江戸時代の人になります。

おいたち 

李元翼(イ・ウォニク)は太宗(イ・バンウォン)の8男・益寧君の子孫です。太宗の4代孫になります。王族としての待遇は父の代で終わり。李元翼は両班の一人として朝廷を支えました。

1564年(明宗19年)。生員に合格。生員になると科挙の受験資格が得られます。生員は地方の学校の学生になります。

蔭補(推薦)で役人になりました。

1569年(宣祖 2年)。科挙に合格して承文院・従事(正九品)になりました。

もともと社交的な人ではなかったので、不必要な人付き合いはせず公的な用事以外ではあまり人にあいませんでした。そのため知名度はありませんでした。

柳成龍、李珥などは李元翼の人柄を知っていたので尊敬していたようです。

1573年(宣祖6年)。權德輿に従って明に向かう使節となりました。明の役人たちは李元翼の文才を試されましたが、彼らの前で見事な書道・文才・詩の腕前を披露して賞賛されました。

李元翼の明での働きは朝鮮朝廷内でも有名になりました。

礼曹佐郎、黄海道都事、軍器寺判官を歴任しました。

黄海道都事をしているとき、黄海道観察使の李珥のもとで働き認められました。李珥の推薦で司諫院正言になりました。

1576年(宣祖9年)。に李珥の推薦で司諫院正言になりました。

1578年(宣祖11年)。弘文館(中央の行政機関)、司憲府(役人の監督機関)、承政院(王命の伝達と、上訴を扱う機関)などで働きました。

1583年(宣祖16年)。承政院右副承旨承旨になりました。

しかし、王子が承政院が王の聡明さを曇らせたと上訴したため、その責任をとって辞任しました。

最初は東人派でしたが、東人派が北と南に分裂すると柳成龍らとともに南人派になりました。

文禄の役(壬辰戦争)での働き

1592年(宣祖25年)。壬辰戦争(文禄・慶長の役、朝鮮出兵)が起きました。

吏曹判書と平安道都巡察使を兼任。王の避難に先立って兵を率いましたが敗退。定州で兵を募ったあと、観察使になって大同江以西の地を守りました。

7月に明から援軍が来ると、明の武将・祖承訓とともに小西行長の守る平壌城を攻撃しましたが敗退。

1593年(宣祖26年)1月。明の増援として来た将軍・李如松とともに平壌城を攻撃して奪回しました。

2月。平壌城奪回の功績により崇政大夫(従一品)の称号を与えられました。

1595年(宣祖28年)。右議政になりました。嶺南に布陣して日本軍に対抗するとともに、明へ食糧調達を行いました。

その後、日本と明の間で和平が成立しましたが、やがて交渉が決裂。再び戦争が始まりました。

慶長の役(丁酉再乱)

1598年(宣祖31年)。稷山の戦いが行われ、戦いに勝ったと思った朝鮮朝廷は明軍の官僚・楊鎬の功績を明に報告することになり領議政柳成龍を使者にすることになりました。しかしこれは北人派の陰謀でした。柳成龍を明に送り政治から遠ざけるためだったのです。李元翼は自らが使者になることで柳成龍が排除されるのを防ぎました。

朝鮮朝廷内で李舜臣(朝鮮水軍の司令官)を高く評価していた数少ない人物でした。

李舜臣と柳成龍の意見が対立したときは李舜臣に味方したこともありました。

戦争のあと北人派が発言力を高めてきました。戦争期間中、義兵を率いて日本軍と戦っていたのは北人派だったからです。

日本軍と和議を主張した罪や民をむやみに土木工事に借り出し、国を疲弊させてた罪で訴えられて領議政の柳成龍が失脚しました。

李元翼は柳成龍を弁護して宣祖の怒りをかい辞任、郷里に戻ってしまいました。

その後、南人派勢力は力を失い北人派が政権をとりました。

1600年。呼び戻されて左議政になりました。

1606年。永昌大君が誕生。後継者争いが始まりました。

小北派が永昌大君を支持して宣祖の後継者にしようとするとそれに反対。日本との戦争では実質的な王として活動していた光海君の貢献が大きいとして支持しました。

 

光海君時代

1608年。宣祖が死亡。光海君が即位しました。光海君を支持していたのは大北派でした。李元翼は南人派にもかかわらず領議政に任命されました。領議政期間中に大同法を実施して税制を改革しました。

大北派も李元翼の改革を支持、一部の南人派は大北派とともに政治を進める李元翼を否定的に見ていました。

大北派が臨海君の処刑を主張すると反対しました。永昌大君の死刑にも反対しました。

1615年。大北派が仁穆大妃の廃位を主張すると反対しましたが江原道洪川に流刑になりました。

その後、1619年に釈放されています。

1623年。綾陽君と西人派がクーデターを起こし光海君を追放。綾陽君が即位しました(仁祖)。

仁祖時代

南人派と西人派は連合政権を作り、李元翼が領議政になりました。

仁祖のクーデターは民心の指示を得られていなかったので民心をあげることに腐心します。

1624年(仁祖2年)。李适(イ・グァル)の反乱が起きた時、仁祖の避難に付き従います。このとき西人派が都の刑務所にいる政治犯の処刑しようとしましたが反対しました。しかし西人派は李元翼の意見を無視して処刑しました。

仁穆大妃が流刑中の光海君の処刑を強く望んでいました。西人派も支持していましたが、仁穆大妃に光海君の処刑をやめるように懇願しました。

光海君の暗殺を予想して人を派遣し光海君を保護したこともあります。

光海君時代に始まった大同法を金堉(キム・ユク)が全国に普及させようと提案したので積極的にしじししました。しかし南人派は金堉が西人派という理由で無関心か反対。西人派は反対したため普及せずむしろ実施地域が狭くなっていました。

その後、引退。余生は学問と後輩の育成に費やしました。彼の弟子には許穆、尹鑴がいます。許穆は特に優秀だったので娘婿にしました。

李元翼の生活は質素でした。長い間、藁葺き屋根の家で暮らしていました。それに感動した仁祖は土地と家を贈ったといいます。

1634年死亡。享年88歳。

李元翼の身長は137cmだったといわれます。現代人よりも昔の人が背が低いのは当然ですが、当時としても背が低かったようです。そのため「背の低い宰相」と呼ばれました。

私欲で動くことがなく、性格が温厚で違う派閥の人々にも尊敬されていたといいます。

テレビドラマ

宮廷女官キム尚宮 KBS 1995年 俳優:シン・グ
王の女 SBS 2003年 演:カン・インドク
不滅の李舜臣 KBS 2004年 演:ユン・ドギョン
懲毖録 KBS 2015年 演:キム・ジョンハク
華政 MBC 2015年 演:キム・チャンワン

 

コメント

タイトルとURLをコピーしました