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ソ・ジダムが名のったパク・ピンエは思悼世子に殺された景嬪朴氏の本名

2 李氏朝鮮の妃・側室

 

韓国時代劇「秘密の扉」に登場するパク・ピンエは実在する人物です。

「朴氷愛」あるいは「朴彬愛」と書きます。

歴史上は「景嬪朴氏」とも呼ばれています。惠慶宮洪氏の書いた日記・闲中录に名前が登場します。

ソ・ジダムというのはドラマのオリジナル設定。実際にはソ・ジダムと名のったことはありません。ソ・ジダムじたいが架空の人物。

思悼世子(イ・ソン)に愛されましたが、最後は思悼世子によって殺されます。

史実のパク・ピンエどんな人物だったのか紹介します。

 

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景嬪朴氏(パク・ピンエ))の史実

いつの時代の人?

生年月日:1612年2月5日
没年月日:1645年5月21日

名前:朴氷愛または彬愛(パク・ピンエ)
称号:景嬪朴氏(追尊)
父:不明
母:不明
夫:思悼世子

彼女は朝鮮王朝(李氏朝鮮)の主に21代英祖の次男・思悼世子の側室です。

日本では江戸時代の人になります。

世子の愛人になったピンエ

朴氷愛(パク・ピンエ)は粛宗の4番めの王妃・仁元王后に仕える宮女でした。針房の内人(宮女)でした。

英祖の次男・思悼世子に気に入られ、妾になりました。

思悼世子は浮気症だったので宮女に手を出すことはよくありました。飽きたら捨てることもありました。でも英祖はとくに叱ることはありませんでした。褒められることではありませんが、かといって罰することでもないからです。 

仁元王后は思悼世子にとって形の上では祖母にあたる人物。王子であっても、目上の人に仕える宮女を勝手に自分の側室にすることはできません。不倫とみなされるのです。

だから思悼世子は最初はピンエに片思いするだけでした。しかし仁元王后が亡くなると、思悼世子はピンエを自分の部屋に連れ込みました。

思悼世子はピンエを和緩翁主の部屋に隠したこともあるといいます。

思悼世子がピンエを自分の女にしたという噂はやがて英祖にも伝わります。

それを知った英祖は激怒しました。というのもピンエは仁元王后に仕える宮女だったからです。王や王妃に仕える宮女は王や王妃の所有物です。

英祖は惠慶宮ホン氏を呼んで、思悼世子がピンエを自分の部屋に連れ込んでいるのをなぜ言わなかったのかと問いただしたといいます。

英祖は思悼世子の部屋に行き、思悼世子にピンエを出すように言いました。思悼世子は一人の宮女を英祖にさしだしました。しかしそれはピンエ本人ではありません。別の宮女でした。

英祖はピンエの顔を知りません。差し出された宮女を部屋の外に連れだしました。でも本物のピンエは思悼世子の部屋に隠れていました。思悼世子とその周辺の人々が黙っていたためにピンエは長い間、思悼世子と一緒に暮らすことが出来ました。

ピンエは従六品の位をさずけられました。後宮ではなく宮女のままです。

この時期、思悼世子は代理聴政をしていました。事実上の王だったので英祖に知られないようにすることも、二人の関係をうやむやにすることは可能だったのです。

思悼世子とピンエの間には恩全君と淸瑾翁主が生まれました。

ところが、思悼世子と同居していたことでピンエに悲劇がおこります。

ピンエが思悼世子の服を用意していた時のことです。思悼世子は火症(ヒステリー的な精神異常)をおこしてピンエを殺してしまいました。

あとでそれを知った英祖は「井戸に落ちるように愛していたのになぜ殺したのか?」と思悼世子を叱ったといいます。

結局、ピンエの死は思悼世子に英祖が死を言い渡す理由のひとつになりました。もちろん、それだけが原因ではありません。この時期の思悼世子は精神的におかしいと思われる不可解な行動が多かったのです。

ピンエは正式な側室ではなく、形の上では宮女でした。

1901年。高宗の時代に景嬪朴氏の称号を与えられています。

 

謀反に担がれた恩全君

1777年(正祖1年)。ピンエの息子・恩全君は老論派に担がれて謀反の首謀者になってしまいます。母・ピンエは思悼世子に殺されました。老論派たちは、母を死に追いやった思悼世子の息子・正祖に対しても恩全君は恨みを抱くだろうと考えたからです。

ところが謀反が発覚、恩全君は毒薬を飲み死罪になりました。

 

テレビドラマ

秘密の扉 2014 SBS 演:キム・ユジョン、ユン・ソフイ

「秘密の扉」の後半でソ・ジダムはピンエという名の世子嬪付きの女官になりすまします。でも歴史上のパク・ピンエとは別人といってもいいくらい違います。

思悼世子の描かれ方も歴史上とはかなり違いますね。

 

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