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火の女神ジョンイのモデル・百婆仙は有田焼の母

朝鮮の人々 6 李氏朝鮮の人々

 

韓流時代劇「火の女神ジョンイ」は朝鮮史上初の宮廷陶工(沙器匠)という設定のユ・ジョンのお話です。

ドラマのユ・ジョンは架空の人物ですが、モデルになった人がいることをご存知ですか?

有田焼の発展に貢献し、有田焼の母といわれた百婆仙という女性です。百婆仙は韓国語でペクパソンともいいます。本当の名前は伝わっていません。百婆仙は愛称なんですね。

百婆仙と朝鮮人陶工たちの有田焼とのかかわりを紹介します。

 

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百婆仙(ペクパソン)の史実

いつの時代の人?

生年:1561年
没年:1656年(明暦2年3月10日)

名前:不明
通称:百婆仙(ひゃくばあせん、ペクパソン)
夫:深海宗伝(ふかうみ そうてん)
子:平左衛門・宗海

彼女は朝鮮王朝(李氏朝鮮)の主に13代明宗の時代に生まれ14代宣祖。日本では豊臣秀吉の時代に日本に来ました。江戸時代の4代将軍家綱の時代まで生きました。

 朝鮮から来た百婆仙

日本と朝鮮が戦った文禄の役(いわゆる朝鮮出兵)のとき、朝鮮から日本に来ました。百婆仙を連れてきたのは後藤家信です。

後藤家信は現在の佐賀県武雄市にあたる肥前武雄の城主でした。肥前国の戦国大名・龍造寺隆信の三男。後藤家の養子となって家督を継いだのでした。龍造寺家の家老・鍋島直茂とともに文禄・慶長の役(朝鮮出兵)に参戦しました。後藤家信は朝鮮から撤退するとき、主君の命令で慶尚道金海から職人たちを連行しました。そのとき連れてきたのが深海宗伝とその妻・百婆仙なのです。

深海宗伝(ふかうみ そうでん)とは

百婆仙の夫は朝鮮で陶工をしていた深海宗伝。日本に連れてこられた陶工たちのリーダー格でした。深海宗伝は日本で付けた名前です。朝鮮での名前は伝わっていません。

ネットでは金泰道という名が広まっています。ところがどうも違うようです。ドラマでユ・ジョンの兄のような存在のキム・テドが深海宗伝だと紹介しているサイトもあります。誤解のもとはドラマのようです。

深海宗伝の出身地とされる金海には金氏が多くいました。深海宗伝が金海金氏だった可能性はあります。深海宗伝はキム・テドのモデルになったのかもしれませんが、ドラマの役名は架空なんですね。

宗伝になったわけ

宗伝は日本に来たばかりのときは新太郎と名乗っていました。新太郎は日本に来る前から武雄広福寺の別宗和尚と一緒に行動していました。別宗和尚は従軍して朝鮮に渡って活動をしてたようです。新太郎と別宗和尚は親しくなりました。そこで別宗和尚から”宗”の字をもらって宗伝と名乗ることにしたようです。

内田で土地を貰う

宗伝は日本に来て数年は広福寺の近くで住んでいました。後藤家信から内田村に土地をもらったので、一族とともに内田村に住み陶磁器を作り始めました。

名字が深海になったわけ

このとき、後藤家信は宗伝に姓を与えることにしました。そこで出身地を尋ねたところ「シンカイ」と答えたので「深海」になったといわれます。

朝鮮南部の金海という地名を言ったのが「シンカイ」と聞こえたのではないかといわれています。

韓国語では金海は”キメ”と発音しますが。朝鮮時代は違ったのでしょうか?それとも他の場所だったのでしょうか?詳しいことはわかりません。

中国式発音では金海は「チンハイ」。中国、朝鮮、モンゴルは”カ行”と”ハ行”の発音が曖昧。”チ”と”シ”の区別も曖昧。なので中国式発音の金海を日本人が聞いたら「シンカイ」に聞こえる可能性はあります。

「シンカイ」が金海のことなら深海宗伝は中国にルーツを持つ人だった可能性もあります。

当時、おおやけに姓を名乗っていいのは特別な身分の人だけです。後藤家信は深海宗伝を武士と同じ待遇にして後藤家の被官(家臣)にしました。

朝鮮では陶工が両班になるのはまずありえないので破格の待遇です。それほど重要な人だと思われていたのですね。

江戸時代になると肥前国は佐賀藩鍋島家が治めることになりました。有田・武雄はひきつづき後藤氏が領主を勤めました。佐賀藩も朝鮮から来た陶工を保護しました。

有田で金ヶ江 三兵衛が磁器の生産を始める

一方、1616年。有田で金ヶ江 三兵衛が焼き物に適した土をみつけ、磁器の生産をはじめました。金ヶ江 三兵衛が有田焼の生みの親といわれるのはこのためです。

金ヶ江 三兵衛の名は日本で名乗った名前。朝鮮での名前は「李参平」といわれますが、明治になって創作されたものだという説もあります。金ヶ江 三兵衛が朝鮮にいたときの名前は伝わっていません。金ヶ江家には姓は「李」だったと伝わっているそうです。20代で陶工たちのリーダーになったので両班だという説がありましたが、調査の結果、両班ではなく賤民だったのかもしれないといわれます。

儒教思想の強い朝鮮では職人の身分は低いです。よほどでない限り職人が両班というのはありえないのですね。

金ヶ江 三兵衛は慶長の役(2回めの朝鮮出兵)のとき日本軍の道案内をしました。日本に協力したので朝鮮に残ると報復される可能性がありました。そのため撤退する鍋島軍に同行したといわれます。

武雄領の内田村ですでに多数の朝鮮人(深海宗伝たち?)が焼き物をしていると聞いて合流しようとしました。しかし途中の板野川内で良い土をみつけたので定住したということです。

佐賀藩の時代になって有田で良い土をみつけ景徳鎮のような磁器を作り始めました。それが有田焼の始まりだといいます。

ですが、この時代に有田で使われた登窯や唐臼は朝鮮にはありませんでした。そこで金ヶ江 三兵衛は明の人だった。あるいは、明の技術を学んだ朝鮮人だったなどの説があります。

百婆仙が有田に移住

1618年(元和4年)。宗伝が死去。百婆仙は夫のあとを引き継ぎ、息子の平左衛門(宗海)とともに焼き物を続けました。

1629年(寛永六年)。このころまでには有田で磁器の生産が始まったという噂は武雄にも伝わったのでしょう。

百婆仙は内田でも磁器を作ろうとしました。ところが、有田と違って武雄の土は柔らかすぎて磁器ができません。

そこで百婆仙は領主を通じて佐賀藩に有田への移住を認めてもらうことにしました。

1630~1631年(寛永7~8年)ごろ。百婆仙は一族と弟子960人を連れて有田の稗古場に移住しました。

他にも焼き物職人が続々と有田村や周辺の伊万里村に集まりました。有田は焼き物の大生産地になったのです。その噂をききつけ陶工以外の日本人もやってきて窯を開くという賑わいぶりでした。自分の窯をもたなくてもレンタルの窯もあり、焼き物を作りやすい環境があったともいわれてます。

陶工が増えすぎて問題発生

1637年(寛永14年)ごろから問題がおこりました。

焼き物を作る人が増えすぎたのです。焼き物は大量の薪を必要とします。山の木々が伐採されて荒れ果ててしまいました。

そこで佐賀藩では朝鮮人陶工とその子孫以外は焼き物をしてはいけないという決まりを作りました。由緒のある陶工をのぞいて日本人陶工は有田や伊万里から追放されました。

百婆仙たちは大切にされていた

しかし日本人陶工追放にはもう一つの目的があります。朝鮮人陶工保護のためです。有田や伊万里で日本人陶工が続々と焼き物を生産すると、金ヶ江や深海の人たちの生活が脅かされるようになってきました。朝鮮人陶工の中には廃業する者もでていました。そこで金ヶ江 三兵衛が佐賀藩に訴え出ました。

佐賀藩としても金ケ江や深海の人々が作る高品質な磁器は大切です。重要な収入源でした。朝鮮人の生活は保証しなければいけません。そこで模倣品を追放することにしたのでした。

こうした佐賀藩の保護もあり、百婆仙率いる深海と金ヶ江 三兵衛率いる金ヶ江の人々は磁器の生産を続けました。

百婆仙は多くの弟子を育て有田焼きの母といわれるまでになりました。

1656年(明暦2年3月10日)。百婆仙は96歳でなくなりました。人生50年の時代ですから、当時としてもとても長生きしたことになります。そこで子孫たちは「100歳(近く)まで生きたお婆さん」という意味で百婆仙という愛称で呼んだそうです。

現代まで続く陶工の魂

深海宗伝と百婆仙の子孫、深海家はその後も有田焼の家として続きました。深海一族は苗字帯刀を許され、窯元として栄えました。明治維新で一時期廃業しましたが、明治時代になって復活。陶磁器製造販売をてがける深海商店として現代でも続いているそうです。

有田焼の始まりと発展は朝鮮人陶工とその子孫たちによって支えられていたのですね。

朝鮮の陶工事情

一方、朝鮮に残った陶工たちの多くは廃業し技を受け継ぐものはわずかとなりました。朝鮮の陶磁器は宋の陶磁器をもとに高麗時代に発展しました。日本よりも進んだ技術を持っていました。

しかし李氏朝鮮時代になると職人たちは冷遇されました。儒教思想の強い朝鮮では、体を使う仕事は卑しい仕事されたからです。職人の身分は低く賤民よりマシといった程度です。賤民の職人もいました。

故郷で暮らしたけど、低い身分のままでいつしか技も途絶えてしまった人。
異国の地につれてこられたけど、高い身分を与えられ技を受け継いだ人。

どちらがいいとは言えませんが歴史とは不思議なものです。

百婆仙をモデルにしたテレビドラマ

火の女神ジョンイ 2013 演:ムン・グニョン

ユ・ジョンのモデルは百婆仙。とはいっても、日本に来る前の百婆仙についてはわかっていません。朝鮮にも記録はありません。ですからドラマの内容はすべて作り話なんです。本当なのは「朝鮮の陶芸関係者が日本に来た」という部分だけなんですね。

でも、ドラマとはそういうものなのです。ドラマをきっかけに有田焼の発展に尽くした朝鮮出身の人たちがいたとわかるだけでもいいのではないでしょうか。

 

また、百婆仙をモデルにした小説が日本で作られました。

小説では深海家は辛島家。深海宗伝は辛島十兵衛、百婆仙は「百婆」という通り名の女性になってます。

あらすじ:
夫を亡した百婆は葬儀を朝鮮式でやると宣言。村は大混乱に。日本と朝鮮の文化のぶつかり合いと融合の中で百婆がとった行動とは?

ジョンイの時代から50年以上離れてますが、ジョンイの後日談として読むと面白いかもしれません。

 

コメント

  1. 鍋倉 陽子 より:

    コロナ騒動後、2年前くらいから韓国バラエティを皮切りに、韓ドラにハマりました。
    このドラマ、最後は倭国に渡ったとのことで、『もしかして?』と思って観ました。
    九州人です! 有田の陶器市はコロナ騒動以前は、GWには、とても賑わうイベント。
    通常時に行くと、とてものどかな趣きのある佇まいです。
    有田焼が有名なのは、昔、有田港から陶磁器を西欧に出荷していたからだとか。
    本当は??『伊万里』のほうが、鍋島藩用窯だったようで、、、大河内山という所に、
    関所後が残っており、傍に朝鮮陶工達のお墓が沢山あるのです。
    連行されたのか、自主的に来たのか、わからないけれど、
    異国の地よりは、自分の国で死にたかったのでは無いか?と、もう20年以上前ですが、
    感じました。ジョンイや、当時のサギジャン達の子孫かもしれませんね⁉︎
    九州は観光地が多いので、佐賀は地味めですが、こういう陶磁器の歴史に興味ある方には、オススメの地です。百均でも、いろいろ買える時代になってしまったけど、
    日常生活に、美のエッセンスを届けてくれた祖の存在は、理解し、感じていたいものです。

    • Fumiya より:

      こんにちは。
      400年前に日本に来た人たちの技術が受け継がれ発展して今では地元の名産品になっているのは素晴らしいですね。「ジョンイ」は作り話ですので百婆仙や深海宗伝がどういう人だったのかは謎ですけれど。日本に来た人一人ひとりにその人のドラマがあったのでしょうね。佐賀の陶磁器文化がこれからも発展するように願ってます。

  2. BIG-BIRD より:

    有田焼の祖は「李参平」と習った世代です。「山川出版社詳説日本史」で調べてみると、「李参平」の名前そのものがありませんでした。(2010年出版)
    念のために「山川出版社の佐賀県の歴史」で調べてみると、李参平が初めて磁器の製作に成功したとあり、年号は元和2年の1616年とありました。(1998年出版)
    朝鮮から来た百婆仙の3行目
    佐賀県武雄市にある備前武雄の城主は肥前武雄が正しいのではありませんか。

    • Fumiya より:

      李参平については後世に作られた名前なので文献によっては出てこない場合があるようですね。現在「李参平」と呼ばれている人が存在したのは事実だったのでしょう。

  3. 有馬焼ではなくて 有田焼ですネ

    • Fumiya より:

      ギャラリーペクパソン様。申し訳ありません。ご指摘ありがとうございます。

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