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高麗 禑王 は李成桂に殺害され高麗の滅亡を早めた国王

1 高麗の国王

禑王(ウ王)は高麗の32代国王です。父・恭愍王の死後、若くして王になりました。

当時の高麗王朝は混乱の時期でした。元が倒れ明が新しくできたことで、高麗国内も元派と明派に分裂していました。古くから力を持っていた重臣たちと新しく台頭した士大夫(儒教を学び科挙で役人になった人)が対立していました。

そのような王朝では王の力は弱く、李成桂(イ・ソンゲ)の起こしたクーデターで王の座を追われ処刑されてしまいます。

 

いつの時代の人?

生年月日:1365年7月25日
没年月日:1389年12月31日
即位年:1374~1388年

名前:王禑(ワン・ウ)
称号:江寧君、荘宗
幼名:牟尼奴(モニノ)
父:恭愍王
生母:般若
養母:順静王后韓氏
妻:謹妃 李氏

子供:昌王(33代国王)

高麗王朝の32代国王です。

日本では室町時代になります。

おいたち

1365年(恭愍王14年)。恭愍王と侍婢・般若の間に産まれました。

牟尼奴(モニノ)と名付けられました。

恭愍王の庶子になりますが、唯一の息子でした。

母・般若はシンドンの奴婢出身でした。なかなか子供が生まれないことを悩んでいた恭愍王に対して、シンドンが王宮入りさせたのが般若でした。

母の身分が低いことを心配した恭愍王は後宮の韓氏の子としました。

1371年(恭愍王20年)。7歳で初めて宮廷に出仕しました。韓氏が養母となり王宮で育てられました。

1373年(恭愍王22年)。「禑(ウ)」の名前を与えられました。

1374年(恭愍王23年)。恭愍王が殺害されると、李仁任(イ・インニム)の後押しで王になりました。

モンゴルの命令で王族の瀋陽王篤朶不花が高麗王を名乗り高麗に入ろうとしましたが、 李仁任らが軍を派遣して高麗入を阻止しました。

即位直後は、明徳太后が摂政をしました。

養母の韓氏を「順静王后」に贈尊しました。

1376年(ウ王2年)。生母の般若は息子を奪われたと思い、ウ王は自分の息子だと訴えました。しかし、明徳太后と李仁任によって処刑されました。

しかしこの事件はウ王の生まれが不確かななのではないかという疑惑を生むきっかけになります。

1380年(ウ王6年)。明徳太后が死去。李仁任が摂政になりました。

1383年(ウ王9年)。ウ王は親政を宣言しました。李仁任は、腹心を要職につけ自分の土地を増やし専横がめにつくようになります。

1386年(ウ王12年)。李仁任は高齢を理由に引退を申し出ましたが、ウ王は拒否。李仁任が引退したのは1387年でした。

かわって朝廷内で影響力を持ったのは禹王の養子となった潘福海でした。しかし潘福海が謀反を起こそうとしたため崔瑩に命じて処刑しました。また李仁任の腹心達の専横が激しかったため、崔瑩、李成桂、士大夫らがクーデターを起こして李仁任の勢力は処刑されます。

これらの事件によって禹王の権力は衰え、崔瑩が力を持つようになりました。

1388年(ウ王 14年)2月。元を倒した明は高麗に対して、元の旧領を返すように要求しました。明に敵対的だった崔瑩らは明の要求を拒否。遼東の明を討伐するため軍を派遣しました。遼東討伐軍の将軍は李成桂を任命しました。

明に戦いを挑むのは無謀な作戦のようにも思えますが、一説には崔瑩と対立していた李成桂を戦地に追いやり消耗させるためだったのではないかとも言われます。

しかし、李成桂は威化島まで向かうと軍を反転させ開京(開城)を包囲。崔瑩が迎え撃ちましたが、兵力で勝る遼東討伐軍に敗退。崔瑩は捕らえられ流刑になりました。

李成桂らはウ王を廃して江華島に流したあと賜死させました。

李成桂らはウ王を恭愍王の子ではなく、シンドンの子だという理由で廃しました。シンドンの子は事実ではないと考えられますが、母親の身分が低かったことが利用されたと言われます。

テレビドラマ

龍の涙 KBS 1996年 演:グォンオソン
シンドン MBC 2005年 演:チェスハン、イディッシュエル
大風水 SBS 2012年 演:イ・ミンホ、チョンウォン
鄭道傳 KBS 2014年 演:パク・ジヌ、ジョンユンソク
六龍が飛ぶ SBS 2015年 演:イ・ヒョンベ

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