李徳馨(イ・ドッキョン、ハヌム)、宣祖・光海君時代の数少ない良心派重臣

李徳響(イ・ドッキョン)、雅号は漢陰(ハヌム)。

韓国時代劇「華政」では光海君の数少ない味方として登場するハヌム。

宣祖、光海君時代の朝鮮の政治家です。東人派に所属していました。東人が北人と南人に分裂後は南人派になりました。

日本との戦争時(朝鮮出兵、壬辰倭乱)には、日本との交渉や明への使者、朝鮮軍の指揮をとりました。壊滅状態にあった朝鮮朝廷の中では奮闘した数少ない重臣の一人です。

光海君の王位就任に尽力。光海君時代には領議政をつとめました。強行路線の大北派と対立し、職を奪われました。

大北派の李爾瞻(イ・イチョム)は同じ一族でしたが対立しました。李恒福(イ・ハンボク)は派閥は違いましたが生涯の友人でした。

史実の李徳響(イ・ドッキョン)はどんな人物だったのか紹介します。

李徳響(イ・ドッキョン)の史実

いつの時代の人?

生年月日:1561年
没年月日:1613年

名前:李徳響(イ・ドッキョン)
号:漢陰(ハヌム)
本館:廣州
父:李民聖
母:文化柳氏(柳禮善の娘)
妻:閑散李氏(李山海の娘)

子供

彼は朝鮮王朝(李氏朝鮮)の主に12代仁宗~15代光海君の時代です。

日本では江戸時代の人になります。

おいたち

 

1612年。李徳響は李民聖と領議政・柳前の妹、柳氏の間に生まれました。一人息子でした。

子供の頃から頭がよく、文学の才能がありました。李徳響に会った人々は彼の書いた文章と人柄に心をうたれたといいます。

宣宗のもとで領議政をつとめた李山海の娘と結婚しました。

このとき、李山海の親戚だった李之菡(イ・ジハム)が李徳響を調べて李山海に紹介したといいます。

1580年(宣祖14年)。20歳のときに科挙に合格して役人になりました。

その後、校理、正郎などを歴任。

李恒福(イ・ハンボク)らと知り合いともに勉学に励みます。

1591年(宣祖24年)。30歳のとき禮曹参判になり、朝鮮史上最年少で大提学(正ニ品)になりました。

日本との戦争が起こる

1592年(宣祖25年)。司憲府大司憲の職にあるとき、日本との戦争(壬辰倭乱、朝鮮出兵・文禄の役)が起こり、左議政の柳成龍、都承旨の李恒福(イハンボク)らとともに対策を考えました。

中樞府同知事となって日本との交渉に臨みましたが失敗。その後、明の使者となって援軍を出してもらうことに成功しました。明軍が到着後は明の将軍・李如松の補佐をしました。盟友の李恒福(イ・ハンボク)とともに朝鮮軍の指揮を取りました。

しかし、都から避難の遅れた妻・柳氏は日本軍に捕まるのを恐れて自決しました。

1597年。日本と明のあいだで行われていた交渉が決裂。再び日本との戦争になりました(丁酉再乱、慶長の役)。

李徳響は漢陽(ソウル)の守りを強化しました。今回は日本軍は漢陽まで攻めてこずに難を逃れました。

1598年。38歳の若さで右議政、左議政を歴任しました。

戦争終結後

1602年に領議政となり、慶尚道、全羅道、忠清道、江原道の四道都體察使となって、軍の再編成と民心の収集に努めました。

1609年。光海君が王になりました。しかし、明が臨海君と永昌大君の存在を理由に嘔吐して光海君を認めません。嫡流でも長男でもないのに王になったのが問題だというのです。

李徳響は使者となって明に向かい説得しました。

1613年。大北派が永昌大君(ヨンチャンテグン)と仁穆大妃(インモクテビ)の廃位を主張しました。一族の李爾瞻(イ・イチョム)が特に強行に主張してました。

領議政だった李徳響は永昌大君や仁穆大妃の処刑に反対しました。大北派を抑えられず、病を理由に辞職届けを出しました。辞職届は受け入れられませんでした。全ての官職を剥奪されました。辞任ではなく解雇の形になってしまいました。

同年10月。私邸で療養中に病で亡くなりました。享年53歳。

李恒福は李徳響の死を聞いて私邸に向かいました。李徳響の遺族とともに葬儀を行い墓碑を建て彼の功績を残しました。

李徳響の死後、光海君は官職を復活させ。
仁祖即位後、功臣となりました。

テレビドラマ

宮廷女官金尚宮 KBS 1995年 演:キム・シウォン
雷鳴 KBS 2000年 演:キム・ギョンハ
王の女 SBS 2003年 演:キム・ホヨウン
不滅の李舜臣 2004年 演:チェ・ジェウォン、ファン・ジュンウク
懲毖録 2015年 演:ナム・ジホン
華政 MBC 2015年 演:イ・ソンミン

 


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