高宗 (コジョン)李氏朝鮮最後の国王

2018年1月17日

高宗 (コジョン)は李氏朝鮮26代国王、最後の国王です。李氏の王朝は27代純宗の時代までつづきますが、高宗の時代に大韓帝国と名前を変えます。

朝鮮王朝はほとんど変化のないまま400年以上続きました。しかしその間世界は劇的にかわっていました。

弱体化する朝鮮に対し外国が次々に押し寄せてきます。

そのような中で、王の父、妃の一族、開国派の重臣たち。さまざまな人々が政権をとり消えていきました。高宗は周囲に流されるまま王であり続けました。

史実の高宗はどんな人物だったのか紹介します。

高宗 (コジョン)の史実

いつの時代の人?

生年月日:1852年7月25日
没年月日:1919年1月21日

在位期間
朝鮮国王:1863~1897年
大韓帝国皇帝:1897~1907年

名前:李熙(イ・ヒ)
李氏朝鮮26代国王
称号:高宗 (コジョン、こうそう)
父: 興宣大院君
母:驪興府大夫人閔氏
妻:明成皇后閔氏

子供:純宗

彼は朝鮮王朝(李氏朝鮮)の最後の王。大韓帝国最初の皇帝です。

日本では明治時代になります。

おいたち

落ちぶれた王族が王になる

1863年。先代の哲宗は跡継ぎがいないまま亡くなりました。

そこで一族から選ばれたのが李熙(高宗)でした。

高宗は仁祖の9代孫。父の李応は王族ながら貧乏な生活をしていました。

血統的には王位相続の可能性はゼロに近いです。有力な王族がいなかったことから選ばれました。

既に亡くなっていた憲宗の子・孝明世子の養子になったあと即位しました。

高宗が即位したときは12歳だったため、最初の2年は神貞大妃が摂政を行いました。その後は興宣大院君となった父が摂政を行いました。

父・興宣大院君が政治を行う

弱体化した国をたてなおすため興宣大院君は様々な改革を行います。朝鮮近海には外国の船が出没。開国を迫られました。興宣大院君は海外に対しては強行な態度を取り続け鎖国状態を続けました。

高宗は興宣大院君の決定に従って署名するだけでした。

1866年(高宗3年)。高宗は閔氏を王妃に迎えました。明成王后です。現代では明成皇后と書かれる事が多いですが、この時期はまだ帝国ではなかったので明成王后と書きます。

でも高宗のお気に入りは貴人李氏でした。1868年には貴人李氏との間に完和君が産まれました。

興宣大院君は初孫の完和君を溺愛します。興宣大院君は完和君を世子にしようとしました。しかし明成王后の反対で失敗しました。完和君は1880年(高宗17年)に病気で死亡します。貴人李氏は悲しみのあまり失語症になり病がちになりました。

父と閔氏一族の対立

興宣大院君はいくつかの改革を進めました。ところが強引なやり方が反発を呼びました。

明成王后とその一族は興宣大院君と対立。儒学者の崔益鉉ら重臣も反発を強めました。

1871年(高宗8年)。明成王后は一人目の王子を産みますがすぐに亡くなりました。明成王后は王子が死んだのは興宣大院君が与えた人参のせいだと考えます。もともと完和君の世子擁立で不信感が高まっていましたから明成王后と興宣大院君の不仲は決定的になりました。

1873年(高宗10年)。崔益鉉らが興宣大院君は辞任するように訴えます。高宗は既に22歳。摂政を続ける理由はなくなったので興宣大院君は摂政を辞任しました。

興宣大院君が去った後、政治の実権を握ったのは閔氏の一族でした。

1874年(高宗11年)。明成王后は二人目の王子(李坧、後の純宗)を出産。

1875年(高宗12年)。李坧が世子になりました。閔氏一族の力はますます強くなりました。

江華島事件と江華島条約締結

開国に反対していた興宣大院君が退任したことを知った日本は国交樹立のため朝鮮に使者を送りました。

ところが朝鮮の江華島に接近した日本の船に朝鮮側が発泡。反撃した日本軍は要塞のあった永宗島を占領しました。これを江華島事件といいます。

高宗は大臣を呼んで日本にどう対処するか検討しました。崔益鉉を中心に国交を結ぶことに反対意見もありました。しかし反対するだけで目前に迫った日本にどう対処するのか意見できる人はいません。高宗と閔氏一族は日本と国交を結ぶことにしました。

このとき国交はヨーロッパ諸国と結ぶのではなく、日本だけだと強調しました。儒学者はキリスト教に反対していたためヨーロッパ諸国と国交を結ぶことは想像できなかったのです。

このとき結ばれたのが江華島条約(日朝修好条約)です。

江華島条約は日本が開国時にアメリカと結んだ条約(日米修好通商条約)とほぼ同じ内容のもの。朝鮮にとっては不平等条約でした。

主な内容はこのようなものです。
朝鮮は釜山と2つの港を開港する。
日本人が朝鮮人を害した場合は日本の領事が裁く。
朝鮮人が日本人を害した場合は朝鮮が裁く。
両国は貿易に制限をかけない(関税がない)。

それでも閔氏一族はこれを機会に朝鮮を開国しようとしました。

アメリカと国交樹立で問題

朝鮮が日本と条約を結んだことで他の国々も条約を結ぼうとします。一度認めてしまえば後は断ることはできません。アメリカが国交樹立を求めてきました。

朝鮮は、清から「ロシアが南下する(つまり朝鮮半島を狙っている)」と聞いて心配していました。そこでロシアを阻止するために清、日本、アメリカの力をあてにしてアメリカとの条約締結に前向きになります。ところが欧米を「禽獣」と考えていた儒学者は反対しました。全国で反対運動が起こり中には国王を批判する者もいました。高宗は強行な上訴をしたものを死罪や流刑にしました。

その後、アメリカと条約締結を結びます。ところが条文をめぐって問題が起こりました。

朝鮮は「朝鮮は清の属国であり、内政外交は朝鮮の自主である」という文章を条約に入れようとしました。しかしアメリカの使節シューフルト提督は「なぜ属国なのに自主があるのか」理解できませんでした。

朝鮮のこだわった一文は条約には入らず、あとで清が「朝鮮は清の属国である」という文書をアメリカ大統領に送っています。

同じ内容の文は日本との条約にも入っていました。でも日本の使節は朝鮮は清の朝貢国だけれども内政外交の自主があるのは知ってました。だから問題になりませんでした。

壬午軍乱・朝鮮軍の反乱

外国の脅威に対抗するため高宗と閔氏一族は軍隊の近代化をすすめます。

朝鮮の正規軍5軍営を3つの組織に再編。日本から堀本礼造を招いて日本式の軍隊「別技軍」を作りました。責任者は明成王后の従兄弟・閔謙鎬。事実上の閔氏のための軍隊でした。

3つの軍営は旧式のままでしたが、別技軍は新式の装備を持ち西洋風の軍隊でした。

ところが旧式の軍は13ヶ月も給料米が支払われないため不満が高まります。

1882年。旧式軍の兵らが抗議すると給料米が支払われました。ところが米に砂がまざって食べられません。兵士は怒りが爆発。閔謙鎬や堀本礼造らを殺害したあと日本公使館を襲撃して日本人を殺害。さらに大臣の屋敷を襲撃して閔氏側の大臣を殺害した後、宮殿に向かいました。目的は明成王后の殺害でした。明成王后は宮殿を抜けて逃亡しました。

明成王后の行方がわからなくなった高宗は、体がないにもかかわらず殺害されたと思い明成王后が死んだと発表しました。

反乱軍に支持されて興宣大院君が再び政治を行うことになりました。

明成王后が行方不明になり閔氏側の主要人物が殺害されたことで閔氏政権は崩壊しました。

この反乱を壬午軍乱といいます。

清の介入と支配

この反乱は朝鮮への支配を強めたいと考えていた清に絶好の機会でした。清は朝鮮国内で反乱が起きたことを知るとすぐに軍を派遣しました。

逃げた明成王后は生きていました、閔氏一族は清の将軍・馬建忠に興宣大院君が反乱の首謀者だと訴えます。馬建忠は興宣大院君を呼び出してそのまま清に連行しました。

その後、清は袁世凱を派遣。興宣大院君派の反乱軍を鎮圧。明成王后が復帰し閔氏一族がふたたび権力を手にしました。

しかし朝鮮軍は袁世凱の管理下に置かれ、朝鮮の内政も清から派遣されたドイツ人顧問メレンドルフと財政顧問の陳樹棠が指導しました。朝鮮の自主は制限されたものになり清の支配下に置かれました。

壬午軍乱の事後処理のため、日本も代理公使花房美質と日本軍を派遣。交渉の結果、朝鮮が賠償金を払うこと、国書で謝罪すること、公使館を守るための軍の駐屯と認めることが決まりました(済物浦条約)。

甲申政変

壬午軍乱のあと朝鮮では清の支配が強まっていました。危機感を覚えた金玉均、朴泳孝ら開化派が日本軍と協力して閔氏一族に反乱を起こしました。

反乱当日、高宗は朴泳孝らにいわれるがまま宮殿を移りました。

高宗と一緒に宮殿を写った明成王后は宮殿を移りたいと言って外に出ると逃亡。清に助けを求めました。

反乱に成功した金玉均、朴泳孝は閔一族に変わって政権を握りました。

ところが高宗の救出を名目に清が攻めてきました。王宮にいた日本軍は数の多い清軍に敗退。

高宗は逃げる途中、清軍に捕まります。金玉均は逃走して日本に亡命しました。

三度、閔氏一族が政権を握りました。

国内でも問題が起こる中、高宗は周囲に流されるままお飾りの王であり続けました。さらに外国との問題も次々とおこり。やがて李氏朝鮮は終わりの時を迎えます。

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高宗(コジョン)朝鮮を終わらせ大韓帝国と名を変えるまで


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