閔百祥(ミン・ベクサン)はイ・ソン(思悼世子)の敵?味方?老論重臣の複雑な立場

2018年8月28日

韓国時代劇「秘密の扉」に登場する閔百祥(ミン・ベクサン)は実在の人物。

主人公のイ・ソン(思悼世子)と対立しているのかと思えば、最後には味方になるという複雑な経緯の人物として描かれています。

閔百祥は一貫して老論派でした。

史実の閔百祥はどんな人物だったのか紹介します。

閔百祥(ミン・ベクサン)の史実

いつの時代の人?

生年月日:1711年
没年月日:1761年
名前:閔百祥(ミン・ベクサン)
本貫:余興閔氏
派閥:老論派
父:閔亨洙
母:全州李氏
妻:牛峰李氏
子供:閔弘燮

彼は朝鮮王朝(李氏朝鮮)の主に19代粛宗~21代英祖の時代です。

日本では江戸時代の人になります。

閔百祥(ミン・ベクサン)の祖父は閔鎭遠。

実は閔鎭遠は仁顕王后の弟ですね。仁顕王后といえば、粛宗の后でしたが一度廃妃になった王妃。
閔鎭遠は老論派の一人で、淑嬪崔氏の生んだ英祖を支持していた重臣の一人です。英祖の時代の初期まで活動していました。

英祖は当時としては大変な長生きだったので重臣の中にも親子三代に渡って仕えた人もいるんですね。

おいたち

1740年。29歳のころ。科挙の文科に合格。

1745年。清に派遣される冬至使の書状官に任命され、北京に行きました。

その後、東莱府使、慶尚道観察使、

成均館大司成(正三品)になりました。成均館は儒学性が学ぶ国立の学校。大司成は成均館で2番めに偉い地位になります。定員は200人ですが、時代によって変化があり英祖の時代は定員120人でした。

辛壬士禍(1721~1722年に起きた延礽君を王世弟にするかしないかで老論派と少論派が対立した事件)のとき、父・閔亨洙が濡れ衣を着せられました。その復讐をしようと少論派の処罰を主張しましたが、逆に弾劾を起こされ慶尚南道 巨済島に流刑になりました。

このころは少論派の勢力が強かった時代でした。

1748年。李麟佐(イ・インジャ)の乱で少論派の多くが失脚。老論派が力をもちます。

1751年。釈放され、戻ってきました。

大司憲(従二品)、吏曹判書(正二品)をヘて、右議政になりました。

1761年。思悼世子(イ・ソン)が、王に無断で平安道平壌に行く事件が発生しました。イ・ソンが平壌で会ったのは隠居中の少論派の趙載浩(チョ・ジェホ)といわれます。老論派と争っていた思悼世子が趙載浩に助けを求めるために会いにいったと言われています。

老論派の中でも貞純王妃の父・金漢耉(キム・ハング)、金尙魯(キム・サンノ)、洪啓禧(ホン・ゲヒ)などはこの件を英祖に報告して、問題を大きくします。

当時、左議政をしていた閔百祥は、思悼世子の行為を止められなかった責任をとって領議政の李天輔らとともに自殺しました。

しかし朝鮮王朝実録には病死と書かれています。

高宗時代。思悼世子を追尊しようと調査が行われ、自殺したと結論付けられました。

特に思悼世子の味方をしていたわけではないようですが、老論派は内部でも考えの違う人達がいました。派閥争いの中で責任を取らされ命を落としたと考えられます。

テレビドラマ

秘密の扉 2014 SBS 演:オム・ヒョソプ

秘密の扉では閔百祥(ミン・ベクサン)、華政のホン・ジュオンの父、朝鮮ガンマンのチョン・スインの父など。時代劇では主人公側の役が多いオム・ヒョソプが演じています(イニョン王妃の男では悪役のミン・アムでしたが)。最初は主人公と対立しますが、後にイ・ソンに協力。いい人なのか悪い人なのか分かりづらい人物に描かれています。

少論派と対立しつつも最後はイ・ソンの平壌行きの責任を取らされて自殺に追い込まれる複雑な経緯の持ち主ため。このような役どころになったのでしょう。

息子のミン・ウソプは実在したの?

ドラマ「秘密の扉」では息子としてミン・ウソプ(閔雨燮)が登場します。
ウソプは実の息子ではなく養子という設定。

実在の閔百祥(ミン・ベクサン)には閔弘燮(ミン・ホンソプ)という実の息子がいました。

ドラマのミン・ウソプは架空の人物なんです。ドラマではミン・ベクサンの息子はウソプしかいないように描かれています。実際には閔弘燮(ミン・ホンソプ)という息子がいたのですが、ドラマには出てきません。


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