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李之菡(イ・ジハム)未来を占う奇人は現実主義者だった

「オクニョ・運命の女」(原題の漢字表記は獄中花)や「華政」に登場するイ・ジハム。彼は実在の人物です。

「オクニョ」では典獄署に捕らえられている罪人として登場します。イ・ジハムは学者なので沢山の知識を身に着けています。その知識をオクニョに伝えて学問の先生になります。占いをおこなったり、街なかでナンジョンを批判したり。そんな彼は朝鮮王朝でも有名な奇人なんです。

「華政」でも預言者として登場。若い頃のハヌム(イ・ドッキョン)に予言を残す役割です。

史実のイ・ジハムはどんな人物だったのか紹介します。

目次

李之菡(イ・ジハム)の史実

いつの時代の人?

彼が生きたのは1517年~1578年。朝鮮王朝(李氏朝鮮)の主に12代仁宗~13代明宗の時代です。

日本では戦国時代まっただ中。織田信長(1534~1582)と同世代の人になります。

おいたち

高麗時代の儒学者・李穡(イ・セク)の子孫だといわれています。

14歳で父・李穉を甲子士禍(燕山君の行なった粛清)を亡くしました。16歳で母を亡くします。長兄の李之蕃(イ・ジボン)から読み書きを習いました。結婚後、徐敬徳(ソ・ギョンドク)の弟子になって学問を習いました。儒学のほか、易学、数学、医学、地学、天文学などを学びました。

未来を予想することができたといいます。妻の父の死を予知したり壬申倭乱(文禄・慶長の役、朝鮮出兵)を予知したともいいます。

息子の1人は文禄の役で義勇兵として戦いましたが、謀反の罪で処分されました。
妻の父・李呈琅は良才駅壁書事件に巻き込まれ処刑されました。この事件は、壁に文定大妃を批判する落書きがあったものを、反対派の陰謀だとして大尹派を粛清した事件です。尹元衡(ユン・ウォニョン)が中心になって行いました。

1573年。遺逸で役人になります。遺逸とは隠居して民間に埋もれている優秀な人材を登用するものです。
1574年。宣祖の時代には地方の長官になりました。河の氾濫を予想して多くの人々の命を救いました。しかし辞職しています。

牙山県監の尹春壽が横暴を働き民の不満が高まっていました。
1578年。イ・ジハムは牙山県監となり乞人庁を作りました。高齢者や病人が草履を編んだり、縄をなったり。若者や丈夫な者に魚を獲ったり。技術を身に着けて自分で収入を得ることを教えます。

イ・ジハムは麻浦の川辺に泥を積み重ねた家を作って暮らしました。川が増水しても彼の作った土手はびくともしませんでした。それ以来彼は「土亭」とよばれるようになりました。

運勢を占う奇人?

イ・ジハムは「土亭秘訣」という運勢を占うための本を書いたといわれています。土亭秘訣は現代の韓国人も使ってる占いの本です。

ただし、実際にイ・ジハムが作ったかどうかは分かりません。彼が占いに詳しいという伝説があり、その名声にあやかってイ・ジハムが作ったことにして売り出したのではないかといわれています。

確かに当時としては変わった言動をすることがあって、奇人と呼ばれていたようです。未来を予想していたので運勢占いもやっていたという噂もあります。物語に登場するときには占い師や奇人として強調されることが多いようです。

実際には身につけた膨大な知識をいかして起こりそうな現象を予想していたのでしょう。当時の人々からみれば「予知」に思えたかもしれません。儒教の普及している世の中では、彼の主張した経済や土木、鉱山開発など現実的な政策は人々に理解されにくかったのかもしれません。

奇人といわれるが実は現実主義者

また外国と交易を行なって国を豊かにして貧しい民を救うべきだという考えを持っていました。徐敬徳の弟子には商人も多く、彼らから経済のことも学んでいたのでしょう。

儒教の影響の強い朝鮮では商売や物作りは卑しいものとして低く見られていました。しかしイ・ジハムは経済や物作りの重要性を理解して人々に普及させようとしました。土木事業や鉱山開発の重要性を主張していました。他の儒学者と違い、理想論だけではなく現実的に貧しさや人々の暮らしを良くするための方法を考えました。

死後、彼の功績が認められ。肅宗の時代に正二位史曹判書の位を贈られました。

テレビドラマ

林巨正 1996 演:
女人天下 2001 演:
華政 MBC 2015年  演:キム・ホヨン
オクニョ(獄中花) 2016 演:チュ・ジンモ

 

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