真興王は新羅を発展させた王

2018年8月23日

 

真興王(チヌン王、しんこうおう)は新羅の王様。

新羅の領土を拡張し高句麗、百済とともに三国時代を作りました。

真興王の時代は大陸の進んだ文化や仏教を積極的に取り入れ、新羅が発展しました。

史実の真興王どんな人物だったのか紹介します。

 

真興王(チヌン王、しんこうおう)の史実

生年月日:534年、(三国遺事では526年)
没年月日:576年

名前:金 彡麦宗李(キム・サムメクチョン)または深麥夫。
称号:真興王(チヌンワン、しんこうおう)
父:葛文王仇珍
母:只召太后(チソ太后)
妻:思道

子供:真智王

新羅の24代目国王。

産まれ年は朝鮮三国時代の正史・三国史記では534年。説話集の三国遺事では526年となっています。この記事では正史の534年説を採用します。

540年。祖父で先代王の法興王が死亡。真興王が即位しました。
真興王は7歳と幼なかったので、540~541年までは先代の法興王の妃・保道太后が摂政を行いました。541年から551年までは只召太后(チソ太后)が摂政をしました。

新羅は541年より百済と同盟を結んでいました。

真興王の時代は積極的に領土拡大を行いました。

548年。高句麗の陽原王が濊と同盟して、百済を攻撃。百済の聖明王(聖王)は新羅に使者を送ってきたので援軍を出しました。新羅・百済連合軍は高句麗に勝利、領土を広げました。

550年。百済(南扶余)と戦争になり異斯夫を派遣。道薩城と金峴城を奪い取りました。

551年。高句麗と戦争になり、居柒夫(金荒宗)を派遣。竹嶺付近を領地にしました。

551年以降は只召太后(チソ太后)の摂政が終わり、真興王が直接政治を行ったと考えられます。

553年。真興王は百済との同盟を破棄、高句麗と同盟しました。百済の漢山城を奪い、その周囲を領地にしました。

554年。百済の聖明王(聖王)は大伽耶、倭と同盟して戦いましたが、管山城での戦いで新羅軍が勝利。聖明王は戦死しました。

異斯夫が上奏したため、国史の編纂を命じました。ただしこの書物は現代には伝わっていません。

562年。異斯夫と斯多含を派遣して大伽耶を滅ぼしました。

百済に大きな損失を与え大伽耶の領地を得たことで新羅は朝鮮半島の南東部を領地にしました。高句麗、百済に対抗できる国になりました。朝鮮半島の三国時代といえます。

占領した領地は、州にして役人を派遣。地方の支配を強めました。

外交

真興王の時代は回数は多くはありませんが、大陸の国と

549年。南朝の梁の使者が来ました。
564年。北斉に朝貢しました。翌年北斉から、使持節・東夷校尉・楽浪郡公・新羅王の称号を得ました。
565年。南朝の陳から使者が来たので、556年から陳に朝貢しました。

先代の法興王が取り入れていた仏教の普及に尽くしました。皇龍寺・祇園寺・実際寺・永興寺などを建立しました。

梁や高句麗など外国から進んだ文化や仏教を取り入れました。

晩年には出家して法雲と名乗りました。

576年8月。死去。享年45歳。

 

テレビドラマ

善徳女王 MBC 2009年 演:イ・スンジェ
花郎 KBS2 2016年 演:パク・ヒョンシク

花郎ではジデイ(サムメクチョン)として登場。こちらでは326年誕生説を採用しているようです。サムメクチョンが成長しているのにいつまでも母親が政治をしているというストーリーにするためでしょう。

当然ですが真興王自身が花郎だったという記録はありません。

善徳女王では晩年の真興王が登場。曾孫が善徳女王になります。


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