申叔舟(シン・スクチュ)首陽大君に味方した重臣の意外な功績

2017年9月18日

王女の男など、首陽大君の関係するドラマでは必ずといっていいほど登場するシン・スクチュ。

若くして文官となり、世宗のもとで学者・外交官として活躍しました。世宗亡き後は、世祖のクーデターに参加(癸酉靖難)。宮廷の実力者となります。世祖亡き後も幼い後継者を助けました。でも意外と功績があったわりには現代の韓国でもあまり知られていません。

史実のシン・スクチュはどんな人物だったのか紹介します。

 

申叔舟(シン・スクチュ)の史実

いつの時代の人?

生年月日:1417年
没年月日:1475年

名前:申叔舟(シン・スクチュ)
父:申檣
母:鄭氏(チョン氏)
妻:尹氏(ユン氏)
子供
申澍
申沔(シン・ミョン)
申澯

彼が生きたのは朝鮮王朝(李氏朝鮮)の主に4代世宗~9代成宗の時代です。

日本では室町時代の人になります。

おいたち

幼いころより記憶力がよく、本を読むのが好きで学問に励みました。性格は落ち着いて思慮深い人だったといいます。

自分で学問に励む一方、近所の子供達を集めて寺子屋のようなものを開いていました。

1439年(世宗21年)。22歳で科挙に合格して役人になりました。集賢殿という国立の研究機関に配属になり学者として頭角を表します

日本語、中国語、モンゴル語、女真語、琉球語など8カ国の言葉も理解できました。外交官として各国との交渉を行いました。

1443年には朝鮮通信使として日本にも来ました。

世宗の命令を受けて鄭麟趾(チョン・インジ)らとともに訓民正音(現在のハングル文字)作成の中心人物となりました。訓民正音の成立に貢献しました。東アジアの言語に詳しいシン・スクチュが新しい文字の大役を任されたのは当然だったかもしれません。

世宗亡き後は文宗を補佐します。

1452年。文宗死去。
文宗は死の間際に重臣や官僚たちに幼い息子(後の端宗)の補佐を託して亡くなりました。

端宗の時代

宮廷は金宗瑞(キム・ジョンソ)などの派閥と、首陽大君(スヤンテグン)を中心とする派閥に別れました。

シン・スクチュは權擥(クォン・ラム)、韓明澮(ハン・ミョンヘ)と交流を深めました。ハン・ミョンヘの紹介で首陽大君とも親密になりました。

1453年。首陽大君は金宗瑞を殺害。皇甫仁ら対立する重臣達を宮廷に呼び出して殺害しました。このクーデーターを癸酉靖難(ケユジョンナン)と呼びます。シン・スクチュは重臣たちの殺害には関わりませんでしたが、宮中で首陽大君を支持する人々を増やすため根回しを行って間接的に首陽大君を助けました。靖難功臣・二等(クーデターで功績のあった家臣)となり、左承旨に昇進しました。

1454年。都承旨(トスンジ・正三品)になります。

世祖の時代

1455年。首陽大君が7代国王・世祖になりました。

シン・スクチュは一緒にクーデターを起こした譲寧大君(ヤンニョンテグン)。權擥(クォン・ラム)、韓明澮(ハン・ミョンヘ)とともに、首陽大君を王に推薦したといいます。彼らは勲旧派(フングパ)という派閥の元になりました。

死六臣との関わり

成三問(ソン・サンムン)らが、世祖を殺害して端宗を復位させようと計画しました。成三問も学者出身で、シン・スクチュとともに世宗に仕えていいました。シン・スクチュはソン・サンムンから、端宗復位計画に参加するように誘われました。しかしシン・スクチュは、彼らの言い分は理屈では正しいかもしれないが無謀な計画なので辞めるように言いました。シン・スクチュと成三問は決裂。成三問らの計画は内通者のせいでばれて捕まりました。

成三問らは拷問にかけられる間もシン・スクチュを「裏切り者」と非難しました。これに対してシン・スクチュは「成三問らは端宗の忠臣かもしれないが、世祖の忠臣ではない」と反論しました。

成三問らが処刑されるときは世祖のそばで黙って見ていました。

この事件のあと、シン・スクチュは上王だった端宗を降格して庶民に降格して処刑することを提案しました。

端宗復位計画に参加した成三問ら6人の家臣たちは死六臣といいます。実際にはこの事件で処刑された者は70人近くになるといいます。

シン・スクチュはかつての学者仲間からは裏切り者呼ばわりされます。彼らは後に士林派(ソムリパ)という派閥を作りますが、士林派によってシン・スクチュの評価は貶められることになります。

1456年。兵曹判書(ピョンジョパンソ・正二品)になりました。国境付近を脅かす女真族との戦いでも功績をあげました。半島南部に出没する倭寇対策でも功績をあげました。学者のイメージが強いシン・スクチュですが軍隊を指揮するのも上手かったようです。

1458年。右議政(ウイジョン・正一品)になりました。
1459年。左議政(チャイジョン・正一品)になりました。
1462年。領議政(ヨンイジョン・正一品)になりました。

1468年。世祖が死去。

睿宗時代

世祖の息子が即位。8代王・睿宗となりました。睿宗は幼かったので貞熹大妃尹氏が垂簾政治を行い、それをハン・ミョンフェらとともに補佐しました。

垂簾政治が終われば、シン・スクチュとハン・ミョンフェは自分たちの天下になります。しかし障害になりそうな者がいました。将軍の南怡(ナム・イ)です。女真族の戦いで功績をあげ、世祖からも信頼されていた将軍でした。しかし睿宗は南怡を嫌っており、シン・スクチュとハン・ミョンフェを信頼していました。そこでナム・イに謀反の濡れ衣をきせて処刑しました。

1469年。わずが2年足らずで睿宗が病死。睿宗の息子は4歳と幼かったので、貞熹大妃とハン・ミョンヘは世祖の長男・義敬世子の息子乽山大君を次の王にしました。

長男の月山大君は格式の高くない家の娘と結婚したのに対して、次男の乽山大君はハン・ミョンフェの娘と結婚していたためです。シン・スクチュも乽山大君を支持しました。

乽山大君は9代国王・成宗となりました。

成王時代

 

成宗はまだ12歳だったので貞熹大妃が垂簾政治を行いました。成宗の実母は仁粋大妃でした。でも年長者の貞熹大妃に力があったのです。

シン・スクチュは再び領議政になりました。成宗の時代になっても貞熹大妃が垂簾政治を行っている間はシン・スクチュとハン・ミョンへは政治の中心にいました。

成宗が成人すると貞熹大妃はあっさりと垂簾政治を辞めました。貞熹大妃は権力に未練はなかったようです。

すると、成宗は強くなり過ぎた勲旧派の力を抑えるために、士林派を採用し始めました。成宗はお互いを牽制させあって、安定した政治をおこなおうとしたのです。

シン・スクチュは成宗の時代にも女真族と倭寇の対策に取り組みました。

シン・スクチュは晩年、年老いたことを理由に何度も辞職しようとしましたが、成宗の許可が出ませんでした。

1475年。病気で亡くなりました。病で寝込んでいるシン・スクチュを成宗が見舞いにきたとき今後どうすべきか助言を求めてきました。シン・スクチュは「日本との友好関係を失わないでください」とアドバイスをしました。

消された評価

首陽大君のクーデターに参加した事から悪者のイメージを持たれていますが、シン・スクチュ自身は世宗時代から功績を残してきた優秀な政治家でした。

シン・スクチュは成宗の時代には自分たち勲旧派の時代はもう長くは続かないと考えていました。そこで派手な生活はおこなわず、権力を乱用することも控えました。

しかし彼の死後、力を付けた士林派によって反逆者扱いになり彼の功績は否定されていきます。現在、韓国ではハングル文字を世宗が1人で考案したものと考えられているのも、シン・スクチュらの功績が否定されてしまったからなのです。

シン・スクチュの死後、力の衰えた勲旧派は力を付けた士林派に対抗できなくなります。成宗が目指したバランスの取れた政治は崩壊し士林派に権力が集中することになったのでした。

テレビドラマ

雪中梅 MBC 1984年 演:パク・ウン
独裁者への道  KBS 1990年 演:ムン・チャンギル
ハンミョンフェ KBS 1994年 演:ペク・ジュンギ
王と妃 KBS 1998年 演:イ・ジョンギル
王と私 SBS 2007年 演:シン・グィシク
大王世宗 KBS 2008年 演:グォン・セイン
王女の男 KBS 2011年 演:イ・ヒョジョン
仁粋大妃 JTBC、2011年 演:ソン・ジョンボム


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