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朝鮮 世祖(首陽大君・スヤンテグン)は大勢の犠牲を出して強い王を目指した

1 李氏朝鮮の国王

世祖(セジョ)は李氏朝鮮の第7代国王。ドラマ的には首陽大君(スヤンテグン)といった方がなじみやすい人も多いと思います。

韓国時代劇「不滅の恋人」ではイ・ガン(チニャン大君)のモチーフになった人物です。

クーデターを起こした首陽大君は王になった後も逆らうものは容赦なく処刑しました。ドラマでも恐い王様のイメージで描かれることが多いでよね。

史実の世祖・首陽大君はどんな人物だったのか紹介します。

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世祖・首陽大君の史実

いつの時代の人?

生年月日:1417年11月2日
没年月日:1468年9月22日

名前:李瑈(イ・ユ)
称号:世祖(セジョ)
即位前の称号:晋平大君(チンピョンテグン)、咸平大君(ハムピョンテグン)、晋陽大君(チニャンテグン)、首陽大君(スヤンテグン)
父: 世宗
母:昭憲王后
妻:貞熹王后

子供:桃源君、睿宗、懿淑公主他

世祖は第7代国王。彼が生きたのは1417年~1468年。日本では室町時代になります。

おいたち

 世宗の次男として生まれました。父・世宗からは野心があると見抜かれていたので王宮から離されていたこともありました。

兄が5代王・文宗として即位します。権力の座からは縁がなさそうに思われました。ところが文宗は病弱でした。

1452年。文宗は2年で病死してしまいます。6代王になったのは兄の息子・端宗でした。しかしまだ11歳の端宗は自分では政治ができません。重臣が決めたことを認めるだけの王でした。しかし首陽大君や世宗の3男・安平大君は王が権力を持つべきと考えていたので、我慢できませんでした。

宮廷は2つの派閥に別れます。

首陽大君のグループと、皇甫仁(ファンボ・イン)、金宗瑞(キム・ジョンソ)ら重臣たちのグループです。重臣の中でも金宗瑞(キム・ジョンソ)は文宗の信頼も厚く端宗のよい補佐役となっていました。それだけに首陽大君のような野心のある王族には目障りな存在でした。

首陽大君は生きている世宗の息子の中では最年長でリーダーシップもありました。首陽大君はは同母弟で世宗の6男・錦城大君とともに端宗の補佐を行いました。

重臣たちは首陽大君に対抗するために安平大君に接近します。安平大君も政治に関心のある王族でしたが、芸術家タイプの人で金宗瑞ら文官とも親交がありました。文官たちにとってはまだ安心のできる王族だったのです。

しかし首陽大君はそんな重臣たちの動きがますます気に入りません。

敵対する重臣を処刑・癸酉靖難(ケユジョンナン)

1453年。首陽大君は安平大君が謀反を企んでいるとして決起します。まず、重臣の中でもっとも手強い金宗瑞の自宅を訪れ金宗瑞とその家族をその場で殺害しました。首陽大君の部下は宮殿に皇甫仁たち大臣を集めて殺害しました。腹心の韓明澮(ハン・ミョンフェ)が前もって作った名簿のとおりに役人を処刑しました。

1454年。安平大君を謀反の黒幕にしたてあげてて江華島に流罪にしたあと毒を飲ませて処刑しました。

首陽大君は自ら領議政になり、政治を行いました。リーダーシップがあり重臣たちを仕切る伯父に13歳の端宗は何もできませんでした。

癸酉靖難の後、錦城大君とは険悪になります。
錦城大君が謀反を企てているとして流罪にしました。

やがて韓明澮らの支持もあって、端宗に譲位を迫ります。命の危険を感じていた端宗は認めるしかありませんでした。端宗は退位して14歳で上王になりました。

7代目国王・世祖になる

1455年。39歳の首陽大君は第7代目国王・世祖になりました。クーデターに参加した韓明澮、権擥(クォン・ラム)、申 叔舟(シン・スクチュ)らを取り立てて重臣にしました。

改革者としての世祖

首陽大君が行ったのは国王の権力を高めることです。国王を牽制する集賢殿を廃止。六曹直啓制を復活させました。反対する者はことごとく粛清しました。書類を大量に作って訴訟を長引かせたり、広場に座り込みして抗議する者たちには拷問や刑罰を加えました。

王の力を強めるため土地制度、軍事、法律などを改革しました。晩年には集大成として李氏朝鮮の規則をまとめた経国大典の作成に取りかかりました。

反対勢力の弾圧

様々な改革を行い国王の力を強めた世祖でしたが。もともとなれるはずのない者が国王になったのですから反対する者も出てきます。世祖は逆らうものには徹底的に弾圧しました。

死六臣

1456年。上王を復帰させようという動きが発覚しました。成三門(ソン・サンムン)らは世宗や文宗に恩を感じている者たちでした。世祖からすると謀反ですが、成三門たちからすれば忠義だったのです。

成三門たちの計画は裏切り者がでたおかげで事前に知ることができました。世祖は彼らを捕らえて拷問にかけ処刑しました。成三門ら事件を主導した中心人物を死六臣とよびます。

端宗から上王の位を取り上げ、流罪にしました。

錦城大君事件

端宗を流罪にして3ヶ月後。今度は錦城大君が端宗を復位させようとしていることがわかりました。世祖は錦城大君を処刑。端宗も処刑しました。

晩年の世祖

兄弟や家臣たち多くの人々を処刑して権力の座についた世祖でしたが、晩年は後悔するようになったと言われます。

晩年、世祖は心の救いをもとめるためしだいに仏教に心酔しました。世祖の時代、多くの寺院が作られています。儒教の強い朝鮮では仏教は弾圧されていましたが、皮肉にも世祖自身が仏教の発展に貢献することになりました。

50歳をすぎると病気がちになり寝込むようになります。皮膚病(おそらくハンセン氏病)で悩むようになりました。

1468年。息子の海陽大君(睿宗)に譲位。翌日に死亡しました。

世祖の称号の秘密

死後、「世祖」の称号(廟号)が付けられました。李氏朝鮮では廟号に付けられる文字には「祖」と「宗」の二種類があります。「祖」は建国した王だけにつける文字です。初代以外の王には「宗」をつけることになっていました。

しかし建国者でもないのに「祖」の文字が使われています。これは弱体化した王権を取り戻した=王朝を復興した。という意味が込められているのです。

世祖の前例ができたことで「祖」の文字は建国者以外でも使っていいことになりました。以後、宣祖、仁祖などの廟号ができる原因になります。

世祖の功罪

世祖は強い王様を目指しました。弱体化した国王の力を取り戻し数百年続く李氏朝鮮王朝の基礎を固めたという功績があります。

一方で、自らの目的のため多くの犠牲を出しました。重臣や下の役人から兄弟や甥までも処刑する容赦のないやり方は残酷なイメージを残します。

また世祖が取り立てた韓明澮、申 叔舟ら重臣は力をつけて派閥を作るようになりました。多くの家臣を処分したために、世祖に忠誠を誓う一部の重臣に権力が集まってしまったのです。彼らの派閥は後に勲旧派(フングパ)と呼ばれました。世祖亡き後、勲旧派は宮中を支配します。そして長く続く派閥争いのもとになるのです。

強い国王を目指した世祖でしたが、強い国王は一代限りで終わりました。結局は重臣たちの派閥争いのもとを作ってしまったのでした。

テレビドラマ

忠義 1974年 KBS 演:ペク・イルソプ
雪中梅 1984年 MBC 演:ナム・ソンオ
独裁者への道 1990年 KBS 演:ユ・ドングン
ハン・ミョンフェ 1994年 KBS 演:ソ・インソク
王と妃 1998年 KBS 演:イム・ドンジン
王と私 2007年 SBS 演:キム・ビョンセ
大王世宗 2008年 KBS 演:ソ・ジュニョン、少年時代:チェ・ミンホ
王女の男 2011年 KBS 演:キム・ヨンチョル
インス大妃 2011年 JTBC  演:キム・ヨンホ
チャン・ヨンシル 2016年 KBS 演:コ・ヨンビン

近年のドラマで印象に残る世祖は王女の男でキム・ヨンチョルが演じた怖い王様のイメージ。自分の目的のために邪魔なものは容赦なく排除する姿は一般的な世祖のイメージに近いです。

インス大妃でキム・ヨンホが演じた世祖はそれまでのイメージとはかなり違っています。心の奥に野心は持ちつつも、親族の命を奪うことにはためらいを見せる非情になれない面もあります。非情な行いは側近たちが行ったことにして、世祖は志の高い穏やかな人物として描かれています。都合が良すぎる展開のようにも思えますね。インス大妃がヒロインのドラマですから、インス大妃と仲の良かった世祖を好意的に描かなければいけないという事情があるのでしょう。

様々な描き方が出来るのも時代劇ならではの楽しみです。

「テグン」でイ・フィのライバルになる兄イ・ガンのモデルになったのも首陽大君です。

イ・バンウォンとイメージがタブる首陽大君

残酷な一面と王の権力を強めた功績。両方が存在する世祖には太宗(イ・バンウォン)とイメージがだぶります。そのためか、太宗と世祖を両方演じている俳優もいるんですね。

俳優 太宗(イ・バンウォン)を
演じたドラマ
世祖(首陽大君)を
演じたドラマ
ユ・ドングン 龍の涙 独裁者への道
キム・ヨンチョル 大王世宗、チャン・ヨンシル 王女の男
ナム・ソンオ 世宗大王 雪中梅

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