タファンのモデルは順帝トゴン・テムル「奇皇后」

2018年2月23日

韓国時代劇「奇皇后」に登場する元の皇帝・タファン。タファンという皇帝は実在しませんが、モデルになったのはトゴン・テムルという元の15代皇帝です。

いわゆる中国大陸の覇者・大元帝国としては最後の皇帝になりました。トゴン・テムルの妃には奇皇后がいます。

ドラマ「奇皇后」のタファンと史実のトゴン・テムルはかなり違っています。歴史上のトゴン・テムルについて紹介します。

 

トゴン・テムルの史実

いつの時代の人?

生年月日:1320年5月25日
没年月日:1370年5月23日

名前:トゴン・テムル
廟号:恵宗
諡:順帝
父:明宗(コシラ)
母:マイライディ
妻:
ダナシリ(タナシュリ)
バヤン・クトゥク
オルジェイ・クトゥク(奇皇后)

子供
アユルシリダラ
トグス・テムル

トゴン・テムルはモンゴル帝国(元)の15代皇帝。
高麗末期になります。

日本では鎌倉時代の人になります。

皇帝になるまで

父・コシラ(明宗)は13代皇帝。コシラは即位前、周王に任命されて赴任中に命をねらられたため中央アジアに逃亡しました。

亡命中のコシラと テュルク系遊牧民カルルク部族の族長との間に産まれたのがトゴン・テムルです。

カルルク部族は名門ではありませんでした。

1328年。父コシラが都に戻り明宗として即位すると皇太子には伯父のトク・テムルが選ばれました。

1328年。明宗の死後、トク・テムルが即位して文宗になりました。先代皇帝の息子だったトゴン・テムルは都から遠ざけられ、高麗や広西(現在の中国・広西チワン自治区)に流されました。

1332年。文宗が死去。皇后ブダシリは遺言によりコシラの息子でトゴンの弟イリンジバルを皇帝にしました。しかしイリンバジルは2ヶ月で死去。

丞相エル・テムルは文宗の子エル・テグスを次の皇帝にしようとしましたが、皇后ブダシリが反対。

ブダシリの命令でトゴン・テムルが呼び戻されました。ところが自らの権力が脅かされると考えたエル・テムルが反対。
都に戻ったあとも半年間は即位できませんでした。

1333年春にエル・テムルが死去したあと、トゴン・テムルはようやく即位することが出来ました。

ややこしい流れですが年表にするとこうなります。
1329年2月。父・コシラ即位。
1329年8月。コシラ死去。
      伯父(父の弟)トク・テムル即位。
1332年9月。トク・テムル死去。
      異母弟イリンジバル即位。
1332年12月。イリンジバル死去。
1333年。トゴン・テムル大都に戻る。
1333年7月。トゴン・テムル即位。

皇帝になったトゴン・テムル

トゴン・テムルは14歳で皇帝になりました。太皇太后のブダシリが後見人になり、甥のエル・テグスを皇太子にしました。

エル・テムルは死去したものの、実権を握っていたのは軍属でした。エル・テムルの息子達が反乱を起こすとバヤンが鎮圧。こんどはバヤンが力を持つようになりました。

20歳を過ぎたあたりから、トゴン・テムルはバヤンに反発するようになります。バヤンの甥・トクトと協力してバヤンを追放。ブダシリとエル・テグスも追放しました。

こうして古い勢力を排除して自分の権力を固めたかのように思えましたが、トクトとその父マジャルタイが力を持ってしまいました。トクトたちの敵だった重臣たちと協力してトクトを追放しました。しかし重臣たちが力をもつことを警戒してトクトをよびもどしています。

 

このようにトゴン・テムルは朝廷内の権力争いに積極的に関わっていました。

しかし朝廷内で権力争いが繰り返されている間に、地方では災害や疫病が流行し人々の支持を失っていきました。元の朝廷は何も出来ず権力争いを続けていました。かつて元に敗れた南宋人は元のもとで差別を受け不満を高めていました。農民も搾取によって生活が苦しくなり全国に不満が広まっていました。

1351年。紅巾の乱が発生します。

トクト達軍閥の力が強くなることを恐れたトゴン・テムルはトクトを追放、元の軍隊は弱体化します。

弱体化した元の軍隊は紅巾の乱を鎮圧することができなくなりました。トゴン・テムルは政治への興味を失い、重臣たちが朝廷を動かすようになりました。

1353年。奇皇后との間に産まれたアユルシリダラは皇太子になりました。アユルシリダラは奇皇后と協力して皇帝の座を狙い重臣たちと対立するようになります。

トゴン・テムルは皇太子と重臣の対立を止めることが出来ず、元の国力はますます衰えました。

元の終わり

1368年。朱元璋は明を建国し、元の都・大都に迫りました。

トゴン・テムルは都を棄てて上都に逃げました。

歴史上はここで中原の覇者としての大元帝国が滅びたことになってます。以後、モンゴル帝国は北元と呼ばれます。

明が中国大陸の覇者になったように思われますが、実際には北元はモンゴル高原を中心に広大な領地を持っていました。1635年に後金に滅ぼされるまでモンゴル帝国は続きます。

1369年には上都も陥落。トゴン・テムルはモンゴル高原にある応昌府に逃げました。再起を図ろうとしますが果たせず。
1370年。死去します。皇太子アユルシリダラが即位しました。

トゴン・テムルには恵宗の廟号が与えられました。

また、明によって順帝の諡を与えられました。日本では順帝の呼び方の方が有名です。

 


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