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宜嬪成氏:ソン・ソンヨン、ソン・ドギムのモデルはイ・サンの寵愛を断った側室

正祖の王妃側室 2 李氏朝鮮の妃・側室

韓国時代劇「イ・サン」のヒロイン ソン・ソンヨン(成松淵)
「赤い袖先」のソン・ドギム(成徳任)にはモデルになった人がいます。

第22代朝鮮国王 正祖の側室・宜嬪 成氏(ウィビンソンシ)です。

本名は 成徳任(ソン・ドギム)。

宜嬪成氏は正祖に最も愛された女性でした。

正祖には何人もの側室がいました。ほとんど名家から選ばれて側室になった人でした。宜嬪成氏だけが宮女(内人)から正祖が直接選んだ人です。

イ・サンのドラマに登場するソン・ソンヨンはかなり脚色された人物ですが、実在の宜嬪成氏も魅力的な人物だったようです。

「赤い袖先」のヒロイン ソン・ドギムも宜嬪成氏をモデルにしています。「赤い袖先」では史実の名前をそのまま使っています。

 

史実の宜嬪成氏はどんな人物だったのか紹介します。

 

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宜嬪成氏(ウイビン ソンシ)成徳任の史実

いつの時代の人?

生年月日:1753年 8月6日
没年月日:1786年 11月4日(旧暦9月14日)

名前:成徳任(ソン・ドギム)
称号:宜嬪(ウィビン)
父:成胤祐(ソン・ユンウ)
母:林氏
夫:正祖

子供
男子 李㬀(イ・スン)  文孝世子
翁主 早世

彼は朝鮮王朝(李氏朝鮮)の主に22代正祖の側室。文孝世子(病没)の母親です。

日本では江戸時代の人になります。

おいたち

名前は成徳任(ソン・ドギム)

祖先の成世昌は朝廷の役人でした。13代 明宗の時代。小尹派によって大尹派が粛清された事件がありました(乙巳士禍)。この事件で成世昌は流罪になって一族は没落しました。

成徳任は21代 英祖の時代、1753年に生まれました。

父の成胤佑(ソン・ユンウ)は洪鳳漢(ホン・ホンバン)の使用人でした。

洪鳳漢は恵慶宮の父。正祖の外祖父(母の父)です。

1756年(英祖32年)。4歳のとき、母の林氏が死亡。

内人(宮女)になる

父の成胤佑は役職についていました。おそらく洪鳳漢のコネがあったのでしょう。

1762年(英祖38年)。10歳のとき、父の成徳任が洪鳳漢の使用人だった縁で宮女になりました。

同じ、成胤佑が横領で逮捕されました。

もしかすると成徳任が宮女になったのは父親が逮捕されたせいかもしれません。というのも罪を冒した官僚の家族が官婢にされたり、後宮に入れられることがあったからです。

成徳任は正祖の母・恵慶宮洪氏つきの侍女になりました。

 

正祖の寵愛を泣いて断る

1766年ごろ。当時世孫だった李祘(イ・サン)は成徳任に寵愛を受けるようにいいました。

でも成徳任は泣きながら「世孫嬪(後の孝懿王后)がまだ子供を産んでいないのにご寵愛をうけることはできません」と辞退しました。

宮女が王や王子の要求を拒むのは死を意味しました。それでも断りました。世孫 李祘は成徳任の気持ちを理解してそれ以上催促しませんでした。

朝鮮王朝の規則では王や王子でも母の侍女に手を出すのは許されません。だから正祖もあまり強くは言えなかったのでしょう。ただし、侍女の主が許可したら別です。

世孫 李祘の母・恵慶宮は息子の願いを聞き入れて成徳任に世孫の寵愛をうけるように言いました。でも、成徳任は従いませんでした。

1769年(英祖45年)。父の成胤祐が死亡。

1773年(英祖49年)。21歳のとき、正祖の妹・淸衍公主(20歳)、淸璿公主(18歳)、宮女ヨンヒ、キョンヒ、ボクヨンと共に小説「郭張兩門録」を書きました。

世孫 李祘は成徳任の筆文字は素晴らしいと褒めたといいます。

1776年。英祖が死去。正祖が即位しました。

 

正祖の側室になる

1780年(正祖4年)。再び正祖 李祘が成徳任に寵愛をうけるように言いました。この時も彼女は断りました。

しかしこんどは正祖は引き下がりません。正祖は成徳任に付き従う使用人を呼び出して叱りつけました。成徳任は仕方なく寵愛をうけることにしました。

この年妊娠しました。11月ごろには承恩尚宮(正五品)になったようです。

また成徳任が暮らすための讌華堂が与えられました。まだ尚宮ですがすでに側室と同等の扱いを受けています。

讌華堂は王が日常業務をしていた宣政殿の東にあり、ます。王の寝所として使われた熙政堂の近くにあったといいます。正祖に気に入られていたことがわかります。

最初の子供は死産でした。

1782年(正祖6年)。成徳任は懐妊しました。

恵慶宮洪氏は成徳任が出産するときは実家から連れてきた乳母や使用人を送って助けました。

当時、正祖には男子がなく後継ぎが望まれていました。成徳任の懐妊が分かると、まだ尚宮の身分だった成氏のために正祖は異例の速さで出産時に設置される臨時の部署を設置しました。正祖の期待の大きさがわかります。

 

息子・李㬀(イ・スン)の誕生と死

成徳任は住まいの讌華堂で李㬀(イ・スン、後の文孝世子)を出産しました。

李㬀が生まれた日、正三品 昭容になりました。

1783年(正祖7年)2月。李㬀(イ・スン)は元子(事実上の後継ぎ)となり、母の成徳任は宜嬪になりました。

1784年(正祖8年)。李㬀(イ・スン)が世子(文孝世子)になりました。

1786年(正祖10年)。
 旧暦5月。文孝世子がはしかで亡くなります。

 旧暦9月14日。
宜嬪は出産時に亡くなりました。心臓の病があったといいますが、世子の死でさらに弱っていたとも言われます。正祖は彼女の死を悲しみ号泣しました。正祖の悲しみ方があまりにもひどいので恵慶宮も心配するほどでした。

正祖は亡くなった宜嬪のために墓碑に刻む祭文(祭祀のときに読み上げる文章)を書きました。

宜嬪は息子の文孝世子とともに孝昌墓(現在の孝昌公園)に埋葬されました。

後の時代に墓が整理され孝昌園に埋葬されました。

 

毒殺疑惑

宜嬪の死因は病気だとされています。

でも朝鮮王朝実録には「宜嬪の症状は尋常ではなかったので、何か原因があるのではないかと当時の人々は疑った」と書かれています。

その後、死因を巡って様々な憶測が流れたようです。

宜嬪の死から数ヶ月たった1786年(正祖10年)12月1日。貞純大妃が「宮嬪ひとつが死んでも心を痛めることはない」と書いた文が残っています。

当時、貞純大妃と正祖の母・恵慶宮は仲がよくありませんでした。宜嬪と恵慶宮は親しくしていたので宜嬪が貞純大妃から快く思われていなかったことは想像できます。

医学の知識があった正祖は宜嬪の死を変に思っていました。

そして宜嬪が内官のイ・ユンムクによって毒殺されたのではないかという疑いがかけられました。正祖は怒ってイ・ユンムクの首をはねて極刑にしようとしましたが、周囲の反対で島流しにとどめました。

しかし正祖は薬は自ら調合して宜嬪に与えていたので毒が入るはずはないと思い直しました。正祖はイ・ユンムクを釈放。かわりにこの件に関わったソン・ヨンドゥクを自ら尋問してソン・ヨンドゥクを島流しにしました。

貞純大妃は正祖の政敵ですから宜嬪の死を聞いても悲しくないのは本音でしょう。でも貞純大妃も息子を失った宜嬪を殺しても意味はありません。

結局のところ毒殺はうわさに過ぎなかったということです。

 

テレビドラマ

イ・サン 2007年、MBC  演:ハン・ジミン 役名:ソン・ソンヨン

赤い袖先 2021年、MBC 演:イ・セヨン 役名:ソン・ドギム

 

 

コメント

  1. BIG-BIRD より:

    了解しました。
    身分社会に生きていた彼女の言葉ならば理解できます。

  2. BIG-BIRD より:

    毒殺疑惑の2行目
    宮嬪ひとつに引っ掛かりがあります。宮嬪ひとりではありませんか。
    宮嬪は女官を表す用語なので、ひとつというのは変だと思います。

    • Fumiya より:

      もちろん宮嬪が「人間」なのは存じております。でも朝鮮王朝実録には貞純大妃の言葉として「無之物」と書かれている部分がありますし。貞純大妃の書いた文のニュアンスとしては宜嬪をあんまり人としてはみていないような様子だったのでこのように書いたんですね。身分社会に生きている貞純大妃の言葉と思って読んでください。

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