暎嬪李氏(ヨンビン)イ・ソンの母親は悲しい決断をした

思悼世子(サドセジャ、イ・ソン)の母親は暎嬪李氏(ヨンビンイ氏)。

李氏朝鮮 第21代国王 英祖の側室です。暎嬪李氏は英祖にもっとも愛された側室といわれます。

1男6女をもうけました。英祖の妃・側室の中では一番子供が多いです。しかしその多くが若くして亡くなっています。

有名な子供の中には、思悼世子の他にも和緩翁主もいます。しかし和緩翁主は、思悼世子の息子・祘(後の正祖)と仲が悪く対立してしまいます。

正祖、英祖、思悼世子を題材にしたドラマは多いですが、思悼世子の母の登場するドラマは殆どありません。歴史の記録どおりにすると息子を死に追いやってしまう母親になってしまうからでしょう。

「仮面の王イ・ソン」では楹嬪(ヨンビン)として登場します。ドラマ自体が架空の設定なので歴史とはかなり違った人物になっています。

史実の暎嬪李氏はどんな人物だったのか紹介します。

暎嬪李氏(ヨンビンイ氏)の史実

いつの時代の人?

生年月日:1696年 8月15日
没年月日:1764年 8月23日

本貫:全義李氏
称号:暎嬪(ヨンビン)
父:李楡蕃
母:漢陽金氏
配偶者:英祖

子供
長女 和平翁主(ファピョンオンジュ)
次女 3歳で死亡
三女 2歳で死亡
四女 4歳で死亡
五女 和協翁主(ファヒョプオンジュ)
長男 思悼世子(サドセジャ、イ・ソン)
六女 和緩翁主(ファワンオンジュ)

彼は朝鮮王朝(李氏朝鮮)の21代英祖の側室です。

日本では江戸時代の人になります。

おいたち

1701年。宮殿に入り宮女になりました。5歳で宮殿に入ったことになりますが、多くの宮女は子供の頃から見習いとして入ることが多かったようです。

1726年。英祖の寵愛をうけ淑儀(従二品)になりました。このとき30歳。側室になるにしては意外と歳をとっていました。英祖は32歳。英祖が30代前半までに側室した女性は、同じ歳か少し年下の人ばかりでした。貞聖王妃は英祖よりも年上だったので気軽に接する事のできる女性を求めていたのかもしれませんね。

年齢が近かいことも

1727年。長女・和平翁主が誕生。
1728年。次女が誕生。
1728年。貴人(従一品)になりました。
1729年。三女が誕生。
1730年。暎嬪(正一品)になりました。
1732年。四女が誕生。
1733年。五女・和協翁主が誕生。

仁元大妃(粛宗の3番目の妃)は、暎嬪李氏が居場所を移して王子を産むという夢を見ました。そこで移動するように命令しました。暎嬪李氏は宣禧宮と呼ばれる建物に住むことになりました。

1735年。思悼世子(李愃、イ・ソン)が産まれました。暎嬪李氏にとっては長男で唯一の息子になります。

英祖は暎嬪李氏を大変愛していたので出産を見守っていたといいます。

1738年。六女・和緩翁主が誕生。暎嬪李氏はこのとき42歳。当時としてはかなりの高齢出産になります。

英祖との間に1男6女をもうけました。6女の和緩翁主を除く王女が若くして亡くなっています。側室になって10年近くの間、毎年のように出産しています。英祖はよほど暎嬪李氏が好きだったのでしょう。

暎嬪李氏の娘は幼い頃に亡くなることが多かったようです。成長した和平翁主と和緩翁主は英祖の溺愛をうけました。しかし和平翁主は21歳で病死しました。英祖は大変悲しんだといいます。

末娘の和緩翁主は長く生きました。しかし実の兄・思悼世子正祖と対立しました。

息子・思悼世子の苦悩

暎嬪李氏にとっては一人息子の思悼世子。英祖にとっては次男でした。長男の孝章世子が若くした死亡したため、思悼世子は後継ぎとして期待されていました。

1752年。そのため思悼世子は15歳で代理聴政を任されるなど、重い役目を請け負わされていました。このとき英祖は56歳。すでに当時の平均寿命を超えています。早く一人前になってもらおうと焦っていたのかもしれません。

しかし思悼世子と英祖は考え方の違いで意見が対立することがありました。しかし思悼世子は気が弱かったため英祖に面と向かって逆らうことができません。いつも叱られてばかりでした。このときの重臣たちは老論派と少論派に分かれて対立していた時期です。若い思悼世子には、老練な重臣たちを相手にするのは精神的にきつかったのかもしれません。

やがて思悼世子は躁うつ病のようになってしまいます。奇行や殺人を行うようになります。

暎嬪李氏は、息子の行動に頭を悩ませます。息子だけでなく息子の嫁や孫の祘(サン、正祖)の立場まで悪くなるのではないかと心配しました。

1762年。暎嬪李氏は、英祖に訴えをおこします。なんと、自分の息子の酷い行いをいくつも書いた書状を英祖に出し、息子を処分して孫を助けてくれるように懇願したのです。訴えた書状の中では、自分が息子に殺されそうになったと書かれています。

本当に思悼世子が暎嬪李氏を殺そうとしたのかはわかりません。ともかく暎嬪李氏は悩んでいたようです。

既に祘(サン、正祖)は元孫に決まっていました。元孫に将来の王です。問題を起こさなければ王になれるのです。暎嬪李氏としては、思悼世子の行いに対する批判は、祘(正祖)の将来を危なくすると考えたようです。

好んで自分の息子を訴えたくはなかったでしょうが、孫のためには仕方ないと思ったのでしょうか。

それまで重臣たちが訴えても思悼世子を叱りつけるだけだった英祖。しかし、暎嬪李氏の訴えは無視できなかったようです。

英祖は思悼世子の廃位を決定しました。

都承旨が「後宮の女性の言葉だけを信じて世子邸下を処分するおつもりですか」と諌めましたが英祖は聞きません。

許しをうったえる思悼世子に対して英祖は自害を命令しました。自害も拒んただめ、英祖は思悼世子を米びつに閉じ込めて餓死させます。

こうして結果的に息子を死に追いやることになった暎嬪李氏。何を思ったのでしょうか。

思悼世子が死亡して2年後。

1764年。暎嬪李氏は息をひきとりました。68歳でした。

英祖は暎嬪李氏の死を大変嘆き悲しんで、後宮では最高の葬儀を行いました。

自身は長く生きましたが、自分の子どもたちや孫たちの多くが若くして死亡しました。
暎嬪李氏の子供で、暎嬪李氏のあとに死亡したのは和緩翁主だけです。その和緩翁主も正祖の即位後、流刑になってしまいます。娘と孫が争う事になってしまったのです。

王の寵愛を受け、当時としては長生きした暎嬪李氏ですが、後半生はあまり幸せな人生だったとは言えなかったかもしれません。

テレビドラマ

朝鮮王朝500年闲中録 1988年 MBC 演:キム・ユンギョン
大王の道 1998年 MBC 演:チョン・ヘソン
仮面の王イ・ソン 2017年 MBC 演:チェ・ジナ


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