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淵蓋蘇文(ヨン・ゲソムン)は高句麗の英雄か逆賊か?

高句麗 1 高句麗

淵蓋蘇文(ヨン・ゲソムン)は、高句麗末期の英雄と言われますが。反逆者という評価もある人物。

性格的にはかなり難のある人物だったようですが、人をまとめるのは得意だったようです。

クーデターを起こして対立する王を殺し、権力を手にしました。それでも強い求心力で高句麗を率いて唐と戦いました。その淵蓋蘇文(ヨン・ゲソムン)が世を去ると、高句麗は一気に崩壊しました。

史実の淵蓋蘇文(ヨン・ゲソムン)はどんな人物だったのか紹介します。

 

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淵蓋蘇文(ヨン・ゲソムン)の史実

いつの時代の人?

生年月日:不明
没年月日:665年(宝蔵王24年)ごろ

名前:淵蓋蘇文(ヨン・ゲソムン)
父:淵太祚

子供:男生、男建、男産

彼は高句麗末期の人物。

日本では飛鳥時代。蘇我馬子や天智天皇の時代になります。

おいたち

幼少時代の記録はありません。

父は「莫離支」あるいは「大對盧」という最高の位についていました。王の次に偉い総理大臣のようなものです。

旧唐書によると、若い頃の蓋蘇文は「髪や容貌がたいへんすぐれ、体つきがたくましい」と、外見や体格は優れていたようです。普段の行いは横暴だったといわれます。

土下座して最高の官職についた

蓋蘇文の父は大對盧という最高の位についていました。世襲制ではなく適した人材がいればその中から選ばれるという制度でした。蓋蘇文の父や祖父も大對盧になっていたので、蓋蘇文もなろうとしました。

しかし周りの者は大反対。性格に問題があると思われていたからです。蓋蘇文は頭を地につけ土下座して謝罪。それを見た周りの人々は蓋蘇文を許しました。こうして蓋蘇文は大對盧になりました。

631年(栄留王14年)。高句麗と唐の国境に長城(千里長城)を作ることになりました。しかし作業ははかどりません。そこで王は蓋蘇文に監督させました。

しかし、強引で横暴なやり方は周囲の反発を受けます。一度は謝罪したものの態度は変わりまえん。

クーデターを起こし王を重臣100人以上を殺害

蓋蘇文の横暴さに不安を覚えた栄留王と大人(重臣)たちは、蓋蘇文の凶暴さを恐れ暗殺しようとしました。

しかし蓋蘇文は王たちの企みを事前に知ることが出来ました。自分の兵士を集めて宴会を開き重臣たちを招待しました。宴会に集まった100人以上(日本書紀では180人)の客を殺害。宮殿に攻め込んで栄留王も殺害しました。

蓋蘇文は栄留王の甥にあたる宝蔵王を即位させました。

自らは大莫離支(テマンニジ)という要職に付きました。大莫離支このとき初めて出てくる官職です。大對盧は3年で交代するという決まりがありました。実際には適任者がいなければ延長することは出来ましたが。権力を手にし続けるため大莫離支という官職を作ったのでしょう。

このクーデターは日本や中国にも知れ渡りました。日本書紀や新唐書にも蓋蘇文のことが書かれています。

外交問題の考えが原因?

また栄留王と蓋蘇文の間には唐をめぐる考えの違いがあったようです。

高句麗は隋の時代までは貢物を送らず朝貢関係には熱心ではありませんでした。しかし隋が滅ぼされ唐が出来ると、栄留王は唐を恐れるようになりました。

唐に使者を送って朝貢しようと考えるようになりました。しかし蓋蘇文は唐に服従するのは我慢できません。弱腰の王と重臣たちをまとめて葬り去って独立を守ろうとしたという説もあります。現代の韓国ではこちらの説が人気があるようです。

 新羅から援軍を求める使者が来る

宝蔵王が王になった年。新羅の金春秋が高句麗に援軍を求めてきました。新羅は百済と戦争中でした。

蓋蘇文は、援軍を出す条件として新羅が占領している高句麗の領地の返還を求めました。金春秋は拒否。蓋蘇文は金春秋を監禁。金春秋に帰国したらすぐに領土を返すという手紙を書かせて解放しました。しかし新羅がその約束を守ることはなく、高句麗は援軍を出しませんでした。

唐との戦争

唐は淵蓋蘇文のクーデターを知ると「臣下なのに王を殺した」という理由で、高句麗を攻撃することにました。唐が認めた王を殺したということは唐に対する反逆になるからです。蓋蘇文のクーデターは唐に攻め込む口実を作ってしまったのです。

644年(宝蔵王3年)さらに百済に加え高句麗も敵に回した新羅は、唐に援軍を要請。唐は高句麗に新羅への攻撃をやめるように使者を送ってきました。しかし淵蓋蘇文はすでに新羅の城を二つ落としたあとでした。さらに過去に新羅が占領した土地を返すまでは戦いを止めない、唐の要求を拒否しました。

654年(宝蔵王13年)。唐の配下にあった契丹を責めましたが、敗退。

655年(宝蔵王14年)。唐の高宗は新羅の要請を受けて、高句麗を攻撃。安市城で激闘が行われ唐軍は敗退。しのぐことが出来ました。三国史記では安市城を守っていた将軍は分からないとされていますが、野史(公式記録ではない書物)では楊萬春だったという説、淵蓋蘇文が直接指揮したという説もあります。

658年(宝蔵王17年)。再び唐が攻撃。

660年(宝蔵王19年)。同盟国の新羅が、唐・新羅連合軍に攻撃され滅亡しました。

唐と新羅の挟み撃ちになった高句麗は、徐々に押されて行きます。

661年(宝蔵王20年)8月には、都の平壌付近まで唐・新羅連合軍が迫りました。がなんとか唐の攻撃を防いでいました。

664~666年の間に淵蓋蘇文は死亡。長男・男生があとを継ぎました。

しかし、弟の男建、男産が男生と対立。

667年(宝蔵王26年)。争い負けた男生が唐に逃亡して援軍を求め、唐の大軍が高句麗を攻めました。内部分裂をおこした高句麗に唐を防ぐ力はありませんでした。

668年(宝蔵王27年)。平壌が陥落。宝蔵王は唐に連行され、高句麗は滅亡しました。

隋・唐を相手に抵抗を続け、強い力を持った高句麗も。内部分裂によってあっけなく滅んでしまいました。もともと高句麗は王は天の子孫、天孫のもとに国民がまとまるという思想で団結していた国です。

家臣が王を殺し権力を手にしたときから高句麗の団結力は衰え、強い指導力をもつ者がいなくなると崩壊が止まらなくなったのかもしれません。

ヨン・ゲソムンの本当の名前はイリカスミ?

ヨン・ゲソムンは日本書紀にも登場します。伊梨柯須弥(いりかすみ)と書かれています。「伊梨柯須弥」は当時の発音を漢字に置き換えただけなので漢字に意味はありません。万葉仮名みたいなものです。

日本では姓の「淵」を「いり」と表現したようです。いりとは「水辺」「泉」を意味します。「淵」の字を日本語で意訳したのかもしれません。古代中国の記録ではヨン・ゲソムンの名前を「泉蓋蘇文」にしています。

名前の「蓋蘇文」は「柯須弥(かすみ)」と表現しました。高句麗語では「蓋蘇文」を「カスミ」かそれに近い発音で呼んでいたのでしょうね。

高句麗の言葉はツングース系の言葉といわれ、現代の韓国語とは違うそうです。高句麗語は韓国語よりも日本語に近いという説もあります。

現代の韓国語は中国や大陸の国々の影響を受けたので古代とは発音が変わっています。中国の言葉(特に北京語)も遊牧民族の影響を受けているので漢の時代とはかなり発音が違います。漢字の音読みが漢や唐の時代の発音を真似たものなのに現代中国の発音と違うのはそのためです。

意外と「ヨン・ゲソムン」よりも「いり・かすみ」の方が高句麗時代の発音に近いかもしれませんね。

テレビドラマ

三国記 KBS 1992年 演:チョ・ギョンファン
淵蓋蘇文 SBS 2006年 演:ユ・ドングン、イ・テゴン、ウンウォンジェ
大祚栄 KBS 2006年 演:キム・ジンテ
階伯 MBC 2011年 演:コ・インボム
大王の夢 KBS 2012年 演:チェ・ドンジュン
剣と花 KBS 2013年 演:チェ・ミンス

 

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