田光・丹太子に注意されて自害?秦王嬴政暗殺未遂事件のもうひとりの犠牲者

春秋戦国6 春秋戦国

田光(でん・こう)は古代中国の春秋戦国時代の人物。

秦王・嬴政(後の始皇帝)の暗殺事件に関わっている人物です。

田光は若いころは任侠生活をおくっていた人です。年老いてからは燕国の大臣と知り合いになっていました。

丹太子から秦の嬴政をなんとかしたいという相談を受けた田光は若い荊軻(けい・か)を紹介します。

ところが丹太子から「情報を漏らすなよ」と注意されると「疑われている」と思い込んで自害してしまいます。

史実の田光はどんな人物だったのか紹介します。

 

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田光の史実

いつの時代の人?

生年月日:不明
没年月日:紀元前227年

姓 :田(でん)
名称:光(こう)

国:燕(えん)

若いころは任侠生活をおくる

春秋戦国時代。領主たちが争って戦争ばかりしている時代に不満があり、官吏(役人)になろうとは思わず、任侠として生きていました。

任侠とは、自分の正義感で動いて、自己犠牲の精神があり、困っている人を助けるために働く人のことです。

現代の日本では任侠といえばヤクザの意味になってしまいましたが。もともとは違う意味でした。

春秋戦国時代にはそういう生き方が「カッコいい」と思う人もいました。

晩年は燕国大臣の相談相手

田光は晩年になると、燕国の都の近く。邢台(現在の河北省邢台市)という所でクラスようになりました。さすがに年老いて全国を旅するわけにはいかなかったようです。

田光は燕国でも知識人として知られていたようです。燕国の大臣・鞠武(きく・ぶ)と親しくなりました。

この時代、政治家や金持ちは様々な能力のある人を雇って自分の目的のために役立てていました。武術のある人はガードマンや傭兵として、知識のある人はコンサルタントとして雇われました。

そのように雇われている人を食客といいます。

コンサルタントを派遣する集団が◯家と呼ばれる組織。春秋戦国時代には、儒家、法家など、諸子百家といわれるくらい様々な流派がありました。それぞれの流派は国を治める方法、人の動かし方、戦い方など、得意分野のノウハウを領主に売っていました。孔子も儒家というコンサル集団の元締めみたいなものです。

もちろん大手に所属せずに個人で活動する人もいます。

田光はフリーで活動。晩年は燕国の大臣のコンサルタントになったようです。

 

太子丹の秦王暗殺計画に関わる

紀元前243年ごろ。燕国の太子丹は秦に人質として行きました。ところが太子丹は秦で冷たい扱いを受けます。秦と燕の関係は悪くなる一方。結局、太子丹は燕国に戻ってきました。

燕国に戻ってきた太子丹は秦との関係に頭を悩ませます。

太子丹は大臣の鞠武に相談しました。鞠武は太傅(たいふ)という太子の相談役も務める大物政治家です。鞠武は秦国の情報を集めていたので経済的にも軍事力でも燕が勝てる相手でないことは分かっていました。太子丹に軽率な行動はしないように注意します。

その後、秦から将軍の樊於期(はん・おき)が亡命してきました。太子丹は秦にいたとき樊於期とも交流があったので樊於期を匿いました。

鞠武はそれを知って樊於期を追放して匈奴に渡してしまうようにいいます。でも太子丹は鞠武の言うことを聞きません。困った鞠武は田光に相談します。

当時の田光は「田光先生」と呼ばれていました。

田光と太子丹は話し合いました。太子丹は自分が秦で暮らした経験から燕と秦の関係を修復はありえない。と主張。

そこですでに年老いていた田光は若くて才能を認めている荊軻(けい・か)に事情を話し、丹太子に紹介します。

田光が部外者の荊軻に話してしまったのを気にしたのか。丹太子は田光に「国の大事なので漏らしてはいけない」と注意しました。

それに対して田光は「太子は私に他言するなと言った。私を疑っているということだ。これでは義侠ある人間とはいえない」と自ら首をはねて自害してしまいました。

荊軻から田光の最期を聞かされた太子丹は「そんなつもりではなかったのに」と言いました。

最後は衝撃的な結末になってしまいました。

その後、太子丹と荊軻は相談して秦王暗殺の計画を進めていきます。

どうもこのあたりはドラマ的な展開で本当にこんな事あったの?と思います。

仮に自害はあったとしても、自分で首をはねるのは不可能でしょう。

たぶん田光は高齢のため死亡したのでしょう。

秦王暗殺事件のころには田光は何らかの理由ですでにこの世にいなかった。そこで話に尾ひれが付いてしまったのではないでしょうか。

ドラマの田光

麗妃と始皇帝 2017年、中国 演:姚侃 

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