穎貴妃(えいきひ)は清朝の第代皇帝・乾隆帝の側室です。
「瓔珞<エイラク>」では 穎妃・巴林(バリン)氏
「如懿傳」では巴林·湄若 穎貴妃・巴林·湄若として登場します。
穎貴妃は乾隆帝の側室の中では若いほうです。
穎貴妃は名家の出身ですが。他に影響力のある側室が何人もいたので目立つ存在ではありませんでした。
子供はありませんでしたが、令貴妃の産んだ第17皇子・永璘をひきとって育てました。
史実の穎貴妃はどんな人物だったのか紹介します。
穎貴妃 の史実
いつの時代の人?
生年月日:1731年
没年月日:1800年3月14日
姓:巴林(バアリン)氏
称号:穎貴妃 (えいきひ)
地位: 那常在→那貴人→穎嬪→穎妃→穎貴妃→婉貴太妃
父:納親(ナチン)
母:不明
夫:乾隆帝(けんりゅうてい)
子供:なし
清王朝の第6代皇帝・乾隆帝の時代です。
日本では江戸時代になります。
おいたち
モンゴル人。一族はモンゴルの名門バアリン氏。バアリン氏はチンギス・ハンに協力しモンゴル帝国の建国に貢献しました。大元でも重臣を出しました。清建国後は蒙古八旗のひとつ、蒙古鑲紅旗に所属する名門一族として続きました。
巴林(バアリン)氏は1731年に生まれました。
父は蒙古鑲紅旗人の長官・納親(ナチン)。
八旗選秀中で選ばれ宮中に入ります。八旗選秀とは八旗の中から皇帝の妃を選ぶ選抜私見です。
(乾隆13年)正月。常在に任命されました。那常在と呼ばれました。
その年の4月には貴人になりました。
1751年(乾隆16年)。穎嬪になりました。
1759年(乾隆24年)。穎妃になりました。
1764年(乾隆29年)。穎妃のもとで宮中の規則を学んでいた女子が武常在になりました。
1767年(乾隆32年)。和碩和嘉公主が重病になりました。和碩和嘉公主は純貴妃蘇佳氏の娘です。
そのとき乾隆帝は熱河(現在の中国河北省承徳市)の避暑離宮に滞在中でした。知らせを聞いた乾隆帝は北京にいた穎妃たちに和碩和嘉公主を見舞いするように依頼しました。皇帝の命令を受けて令皇貴妃、穎妃、和靜公主、和恪公主たちが和碩和嘉公主を見舞いました。
しかしその後も和碩和嘉公主の容態は良くならず、9月7日。和碩和嘉公は死亡しました。23歳でした。
第17皇子・永璘の養母になる
1775年。令皇貴妃・魏佳氏が死亡。令皇貴妃には当時10歳だった17皇子・永璘がいました。穎妃は母を失った永璘の世話を任されました。
穎妃には子供はいません。穎妃にとっては永璘を育てることが心の支えになったようです。
1794年(乾隆59年)。穎妃と固倫和孝公主は熱河に行きました。固倫和孝公主の母は惇妃汪氏です。熱河は現在の内モンゴルにあった清皇室の避暑地です。二人は病気療養を兼ねて避暑地に来ていました。
ところが大雨で橋が流されしばらく足止めをうけてしまいました。
その知らせを聞いた乾隆帝は長い旅になったが病気の療養にはよかっただろうと考えました。乾隆帝は橋を修理させ、水が収まると手紙を出して二人を戻しました。
嘉慶帝の時代
乾隆帝が譲位。嘉慶帝が即位しました。穎妃は景仁宮を出て永壽宮で暮らしました。
1798年(嘉慶3年)4月。乾隆太上皇が勅命を出し、穎妃を穎貴妃にしました。
10月には嘉慶帝から穎貴太妃の称号が与えられました。
1799年(嘉慶4年)。乾隆帝が死去。
70歳の誕生日がぶちこわし
1800年(嘉慶5年)。穎貴太妃は70歳になりました。永璘は70歳の誕生日に贈り物をして、式典を行いました。永璘は母・令皇貴妃の死後、穎貴太妃に育てられました。そのため穎貴太妃を母親のように慕っていました。子供のいない寂しい暮らしをしていたので穎貴太妃は喜びました。
ところが、永璘が誕生会をしているのを知った嘉慶帝は激怒します。
嘉慶帝は永璘を呼び出して「なぜ自分に内緒で勝手なことをするのか」と叱りつけました。誕生会はすっかりしらけてつまらないものになってしまいました。
穎貴太妃はその年に死亡しました。享年70歳。
テレビドラマの穎妃
瓔珞〜紫禁城に燃ゆる逆襲の王妃〜 2018、中国
役名:穎妃・巴林氏 演:劉璐
ドラマの中では目立つ存在ではありません。
如懿傳〜紫禁城に散る宿命の王妃~ 2018、中国
役名:穎貴妃・巴林·湄若 演:張佳寧
魏氏と仲が悪く、ヒロイン烏拉那拉·如懿の味方です。
天命 2018、中国
役名:穎貴太妃 演:盧宛茵
嘉慶帝時代のドラマ。主人公は重臣の和珅(ヘシェン)。穎貴太妃はこのドラマではわりと目立つ役です。このドラマでは嘉慶帝によって自害に追い込まれます。
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