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魏丑夫・殉葬されそうになった宣太后最後の愛人

春秋戦国 8 春秋戦国

魏丑夫(ぎちゅうふ)は古代中国の春秋戦国時代の人物。

秦の宣太后の愛人(情夫)でした。

戦国策では「魏醜夫」と書かれています。

夫を失った宣太后が晩年に出会ったのが魏丑夫でした。

史実の魏丑夫はどんな人物だったのか紹介します。

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魏丑夫(ぎちゅうふ)の史実

いつの時代の人?

生年月日:不明
没年月日:不明

名称:魏丑夫(ぎちゅうふ)
国:秦
父:不明
母:不明
夫:宣太后

彼は宣太后の情夫です

日本では弥生時代になります。

おいたち

生年。生まれた場所、両親は不明。

ほとんど何も分かっていません。

魏丑夫(魏醜夫)はあだ名のようです。

魏国出身だから魏丑夫とよばれたのか、姓が「魏」だったから魏丑夫と呼ばれたのかはわかりません。

秦国で暮らして宣太后に仕えました。

宣太后からは「魏子」と呼ばれていたようです。

宣太后の晩年。恵文王や義渠王もすでにこの世になく。独り身の宣太后が最後に伴侶にしたのが魏丑夫です。

年老いた宣太后は重病になりました。宣太后は自分の死期が近いことを悟り遺言を残します。

「私を葬るときは必ず魏子を殉葬させよ」

殉葬とは身分の高い人が亡くなったときに、配偶者や家来、奴隷を一緒に葬ることです。一緒に葬られる人は自殺する場合もあり、殺される場合もあります。

古代の中国には殉葬の習慣がありました。秦でも王が死去すると数十人の家来や奴隷が殉職しました。

秦では献公の時代に殉葬が禁止されました。その後、恵文王、武王の時代になっても殉職は行われていません。始皇帝陵の兵馬俑は殉葬の代わりともいわれます。

宣太后の時代にはすでに殉葬が禁止されていたのです。ところが宣太后は魏丑夫を愛するあまり、あの世でも一緒にいたいと願うようになりました。

ところがそれを聞いた魏丑夫は心配になりました。死にたくはありません。そこで大臣の庸芮に相談しました。

庸芮は殉葬を止めさせようと宣太后を説得しました。この時代の秦の規則では禁止されているからです。

かつては宣太后とその兄弟たちは王以上の力を持ち秦の権力を極めました。でも今は昭襄王に権力を奪われ隠居の身でした。

とはいっても王の母ですからあまり強引なことはできません。

庸芮は「規則だから」と形式的に禁止するのではなく、心情や理屈をうまく使って説得しました。

「戦国策」という伝記にはこのようなやり取りが残されています。

庸芮は宣太后に言いました。
庸芮「太后は死者に知覚があるとお思いですか?」
宣太后「知覚なぞないであろう」

庸芮「もし太后がはっきりと死者に知覚がないのをご存知なら、どうして、何の役にもたたないのに、生前愛した者を知覚のない死者のために葬ろうとするのでしょうか?」

庸芮はさらに続けます

「もし死者に知覚があるのなら、先王(恵文王)は随分長い間、あなたの不義に対する怒りを積もらせていることでしょう。

太后の過ちは救いようもないほどです。太后があの世で魏醜夫と一緒に居続けることができるはずがありません」

宣太后「もうよい」

「戦国策」は儒教が広まった漢の時代に書かれたので脚色されているとは思いますが。おおまかな内容はこんな感じだったでしょう。

お互いが愛していることを知らない、感じることがないなら殉葬は無意味。

もし死者に感情があるのなら。宣太后の元夫・恵文王が自分が死んだ後に他の男と一緒になっている妻(側室)の姿を見て怒っているに違いない。怒っている元夫がいるのだからあの世でも情夫と一緒にいられるはずがない。

というのです。

死者に感情や感覚がないとは、現実的というかずいぶんと冷めた考えですが。教養のある当時の中国人の生死感とはそういうものです(だから怨霊は怖くないし墓を壊して遺体や骨を破壊しても平気、供養は自己満足や見栄でやってます)。教養のない庶民は霊や魂の存在を信じています。

庸芮の説得に宣太后は一本取られた感じでしょう。

宣太后は殉葬を止めました。

紀元前265年。宣太后が死去。

享年は不明です。

でも息子の昭襄王がこのとき60歳。宣太后は軽く70を超えてるでしょう。70代後半だったかもしれません。その年になっても愛人がいたとは大した女性です。恋に年齢は関係ないということでしょうか。

その後、魏丑夫がどうなったのかはわかりません。

魏丑夫の記録はこれだけです。

古代中国の情夫事情

古代中国には女性でも権力がある人には愛人(情夫)がいました。

ここでいう情夫とは結婚していない男のことです。

とくに儒教が広まる前は地位のある女性に情夫がいるのは珍しいことではありません。

情夫のことは古代中国では「面首」や「小白臉」と呼ばれていました。情夫になる男性はたいていは面長で色白だったからです。美形の基準は今とあまり変わらないようです。

でも儒教が広まる前といっても中国(に限りませんが)は男性中心の社会ですから。情夫は名誉な生き方ではありません。

出世や手柄をたてたりするのが名誉とされる男社会では、女性に養ってもらってる男は「男の恥」とされたのです。

女性が側室になるのとは事情が違うようです。

とはいっても禁止されていたわけではありません。情夫の存在は秘密にはしませんから周囲の人も誰が誰の愛人なのか知っています。

だから記録に残っているのですね。

周りの者は知っていても、止めさせることはできません。

そういう時代だったので情夫になる人はいました。

漢の時代になっても太后や公主、貴族の女性に情夫がいたという記録があります。

でも儒教が広まると太后であっても情夫をもつ人はほとんどいなくなります。儒教では女性の再婚が許されないからです。

それでも武周(唐)の武則天や契丹(遼)の蕭太后など夫の死後、愛人をもった女帝・皇太后はいます。どちらも遊牧民王朝なのはやはり儒教の広まり方が弱いせいなのでしょうか。

ドラマ

ミーユエ 2015年、中国 役名:魏丑夫 演:黄軒

晩年のミー・ユエの伴侶になるのが魏丑夫。魏丑夫を演じているのは劇中で黄歇を演じた 黄軒(ホアン・シュエン)。かつての恋人の面影を残す人という設定。観てる人は黄歇が若返ったと思えてしまうのではないでしょうか。

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