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馮嫽・西域で活躍した中国史上最高の女性外交官

前漢 7 漢

馮驩(ふう・りょう)は前漢の女性外交官です。

もともと漢の公主 劉解憂の侍女でした。

和親公主になった劉解憂について烏孫に行き。烏孫で右大将と結婚しました。

彼女は王女の使者を務め、西域諸国との友好関係で知られ、西域の国々では「馮夫人」と呼ばれていました。

また烏孫王の後継者をめぐる争いでは、反乱を起こした烏就屠の説得に成功。平和的に解決して皇帝からも称賛されています。

中国史上に残る唯一の女性外交家といってもいい馮驩とはどのような人物だったのでしょうか。

史実の馮驩(ふう・りょう)を紹介します。

 

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馮驩の史実

いつの時代の人?

生年月日:不明
没年月日:不明

姓 :馮(ふう)
名称:驩(りょう)

国:前漢→烏孫
地位:漢・解憂公主の侍女→烏孫・右大将夫人
称号・呼称:驩夫人

夫:烏孫・右大将(名前は不明)

彼女はです

日本では弥生時代になります。

劉解憂の侍女

紀元前101年。烏孫昆弥(こんや=王)に嫁いでいた劉細君(りゅう・さいくん)が死去。そこで漢武帝は劉解憂(りゅう・かいゆう)を新しい和親公主として烏孫昆弥・軍須靡(ぐんすび)に嫁がせました。

劉解憂は楚王・劉戊(りゅう・ぼ)の孫娘。劉戊は武帝に反乱をおこして自害。楚王の地位を剥奪され一族は没落しました。

劉解憂は楚王府で育てられました。

馮驩(ふう・りょう)は劉解憂に仕えた侍女。馮驩がいつどこで生まれたのか。両親は誰なのか。いつから劉解憂に仕えていたのかはわかりません。

馮驩は身分の低い女性だったようですが、もともと頭がよかったようです。

解憂に付き従って烏孫に行く

劉解憂が烏孫に嫁ぐと馮驩も付いていきました。

烏孫

 

烏孫に到着した劉解憂は「右夫人」の称号を与えられました。

ところが軍須靡(ぐんすび)は自分が高齢なのを理由に、劉解憂を軍須靡(ぐんすび)と結婚させました。

馮驩は劉解憂と一緒に烏孫で暮らし始めました。遊牧民のテント(パオ)で暮らし草原を馬で走り回り現地の生活に馴染んだようです。数年で西域の言葉や習慣を覚えました。

紀元前93年。烏孫昆弥(烏孫王)軍須靡(ぐんすび)が死亡。翁歸靡(おうきび)が烏孫昆弥(烏孫王)になりました。劉解憂の称号はひきつづき「右夫人」です。

馮驩は解憂の使者になって西域の国を行ったり来たりしました。西域の様々な国の人々と会って交渉しました。

馮驩は流暢に現地の言葉を喋ることができてたので通訳が必要ありませんでした。

馮驩は大らかで控えめ、それでいて話術が上手でした。西域の人々は馮驩を称賛し、西域の人々は馮驩を「馮夫人」と呼びました。現代と違ってこの時代の「夫人」は王族級の高貴な女性に使われる敬称です。馮驩はそのくらい地位の高い人と思われていました。

やがて馮驩は烏孫の右大将と結婚しました。

解憂と翁歸靡の間には元貴靡(げんきび)という息子がいました。元貴靡が次の烏孫昆弥になる予定でした。翁歸靡は匈奴との関係を断って漢とのつながりを深くしようと思い、元貴靡と漢の公主との結婚を希望しました。

紀元前60年。漢の公主が烏孫に来ることになっていました。ところが敦煌まで出迎えに言った烏孫昆弥・翁歸靡(おうきび)は急死。

烏孫の貴族たちは軍須靡の息子・泥靡(でいび)を次の烏孫昆弥にしました。

漢は烏孫に不信感をもって元貴靡と漢の公主との縁談は破断にしました。

解憂は新しく烏孫昆弥になった泥靡の夫人にされてしまいます。解憂は息子が次の王になれず、新しい王の妻にされてしまったので不満でした。

泥靡は翁歸靡ほど理解のある夫ではなく横暴だったのでよけいに嫌いでした。解憂は漢の使者・魏和意と共謀して泥靡を暗殺しようとしましたが失敗。解憂たちは赤谷城に立て籠もり泥靡軍の攻撃をしのぎました。

漢から応援が駆けつけ怒る泥靡をなだめました。漢としてもここで烏孫との同盟を破棄するわけにはいかないのです。

烏就屠の反乱

紀元前53年。烏就屠(翁歸靡と匈奴公主の息子)が反乱を起こし、泥靡を殺害。

漢の宣帝は将軍の辛武賢を派遣。烏就屠を討とうとしました。

馮驩の夫・右大将は烏就屠と親しかったので西域都護の鄭吉は馮驩を派遣。馮驩は烏就屠に降伏するように説得しました。

烏就屠は怯えて黙っていました。

馮驩はさらに「漢と烏孫は家族のように親密です。両国が戦争になると、庶民は苦しみ、将兵たちは将軍は敗れ名を汚すでしょう。よく考えてください」

烏就屠は漢に敵わないことを知りこう言いました。

「私は馮夫人のご助言を聞いて元貴靡に王位を譲ります。そこかわり漢王朝からなにか爵位を与えてください」と言いました。

馮驩は烏就屠の要求を認め、彼をねぎらいました。

漢宣帝は馮驩の説得が成功したのを聞いて喜びました。でも漢宣帝は馮驩の名前を聞いたことはありますが実際に会ったことはありません。そこで漢宣帝は馮驩に漢に戻るように命令しました。

馮驩が40年ぶりに長安に戻ってきました。漢宣帝は市の郊外で彼に挨拶するように市民と軍の役人に命じました。都の人々はその知らせを聞き、女性使節を一目見ようと先を争って集まってきました。

馮驩は宮殿に呼ばれて漢宣帝に謁見しました。馮驩は漢宣帝に烏孫でのできごとを報告、烏就屠を安心させるため称号を与えるようにお願いしました。

漢宣帝は馮驩の先見性と慎重さを称賛。彼女の意見を認め、馮驩を正使、甘延寿を副使に任命して烏孫に再び派遣しました。

馮嫽は漢節(皇帝の使者を意味する棒丈の印)を手に持ち馬車に乗って烏孫に戻ってきました。そして元貴靡を「大昆彌(烏孫王)」、烏就屠を「小昆彌」に任命。印綬を授けました。大昆彌は6万。小昆彌は4万の世帯を配下にもつ王でした。

紀元前51。元貴靡は大昆彌在位3年で死去。元貴靡の息子の星靡があとを継ぎました。劉解憂の孫が王になったのです。息子の死後、劉解憂は漢に戻りたいと漢の皇帝に希望。宣帝は解憂の願いを聞き入れ。劉解憂は3人の孫娘とともに漢に戻りました。

馮嫽は烏孫に残り星靡を支え続けました。

紀元前49。劉解憂が死去。

烏孫の大昆彌になった星靡でしたが病弱でした。星靡には国を治める力がなく国内では再び混乱してきました。馮嫽は漢の皇帝に使者を派遣、漢から援軍を出して星靡を助けて欲しいと訴えました。漢の朝廷は百人の選りすぐりの精鋭部隊を派遣。元帝は韓宣の意見も聞き高官や役人を派遣、星靡をサポートさせました。

こうして烏孫は安定しましたが、ますます漢の支配が進むことになります。

馮驩がいつ亡くなったのかはわかりません。

 

中国王朝史上唯一の女性外交官

解憂の侍女から始まり。解憂とともに烏孫に行き、烏孫で結婚しました。解憂が去ったあとも解憂の孫を守りました。それとともに積極的な外交活動を行って西域で漢の影響力を広めるのにも貢献しました。

馮驩は劉解憂や漢皇帝の使者となって西域の人々と会いました。

西域ではまだ漢を知らない国や、漢より匈奴との付き合いを大切にする国も多かったので。馮驩の活動は漢の存在や影響力を広めるのに貢献しました。

長い中国史でも女性が外交官として活動したのはこのときだけでしょう。馮驩が有能な人物だったのは間違いありません。西域が漢民族の住む地域とは違う活動的な場所だったこと。中華王朝はまだ儒教が広まる前ことも影響しているのでしょう。

 

テレビドラマ

解憂 2016年、中国 演:葉青

 

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