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韋貴妃 武則天のライバルは悪女ではなかった

4.3 隋・唐

韋貴妃は唐の2代皇帝・太宗の側室。

皇后を除けば最も高い地位にある貴妃の地位にいました。

武則天が若いころ、後宮で最も力のあった女性です。

そのため韋貴妃はドラマなどでもよく登場します。権力欲が強い悪女として描かれることが多いです。

ところが歴史上実在した韋貴妃はそうではなかったようなのです。後宮でも尊敬を集める女性でした。

史実の韋貴妃はどんな人物だったのか紹介します。

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韋貴妃の史実

いつの時代の人?

生年月日:597年
没年月日:665年9月28日

姓:韋(い)
名:珪(けい)
称号:韋貴妃(いきひ)、紀国太妃(きこくたいひ)
父:韋円成(い えんせい)
母:
夫:李珉→李世民(太宗)

子供:
父:李珉
 女:定襄県主

父:李世民
 女:臨川公主
 男:李慎

彼女は唐の2代皇帝・太宗の側室です。

日本では飛鳥時代になります。

おいたち

韋貴妃は597年に生まれました。

本名は韋珪(い けい)

父は韋円成(い えんせい)。陳州刺史。地方の行政を監督して回る役人でした。

4歳のときに父親が死亡しました。韋珪は父の墓の前で泣いていたといいます。

隋の戸部尚書 李子雄の子の李珉と結婚。
613年。娘(後の定襄県主)を産みます。定襄県主は後に阿史那忠と結婚します。

621年。宮廷に入り李世民の妾になりました。良家から選ばれた」とだけあり、韋珪が李世民のもとに来た経緯はよく分かりません。唐王朝の記録では再婚の経歴は消されていました。

624年。臨川公主・李孟姜が生まれました。

太宗の時代

626年。李世民が皇帝になりました。

627年4月1日。韋珪は貴妃になりました。
貴妃は皇后の次の地位。4人いる「妃」の中では最高位。側室の中では最高の位です。姓の「韋」を付けて「韋貴妃」と呼ばれます。

李世民との間に生まれた李孟姜は「臨川公主」の称号が与えられました。
元夫・ 李珉との間に生まれた娘には「定襄県主」の称号が与えられました。

628年。韋貴妃にとっての長男・李慎が生まれました。

631年。李慎が「申王」になりました。

636年。長孫皇后が死去しました。
皇后の座が空きましたが、太宗は長孫皇后が忘れられなかったので新しい皇后は選びませんでした。

そのため側室最高位の韋貴妃が後宮で最も権威のある女性になりました。

636年。息子の李慎が「紀王」になりました。

643年。紀王・李慎が襄州刺史になり赴任しました。李慎は自分の領地で善政を行い。良い領主として領民から慕われました。

649年。太宗が死去。

高宗の時代

650年1月29日。紀国太妃になりました。

651年。紀王・李慎が荊州都督になりました。

紀国太妃も息子の紀王・李慎が治める荊州に移り住みました。

665年。越国太妃燕氏や高宗とともに泰山に行きました。ところが途中で紀国太妃は病気になってしまいます。高宗は医者を呼んで治療させました。しかし河南の敦行里の邸で亡くなりました。享年69歳。高宗は紀国太妃の死を嘆き悲しんだといいます。高宗にとっても母親のような存在だったのでしょう。

666年。昭陵に埋葬されます。最も格式の高い埋葬のされ方をしています。

歴史上の韋貴妃はドラマとは正反対の女性だった

韋貴妃は美しく整った顔立ちで、立ちふるまいも堂々としていたといいます。その一方で、飾らない性格。女性の再婚が珍しかった時代。再婚にもかかわらず李世民が自分の側室にしたのは美しさや立ち振舞が李世民の心を捕らえたからかもしれません。

武媚娘(武則天)が若いころ太宗の側室になりました。でもそのときには皇后が亡くなっていたので韋貴妃が後宮で最も高い地位にいました。韋貴妃は武媚娘よりも27歳も年上。後宮では若い武媚娘では相手にならないほどの力を持っていました。武媚娘と直接争うことはなかったでしょう。

歴史上の記録では美しく威厳はあるけれども、やがて失敗する悪い女性とは記録されていません。むしろ性格の素直な女性だと入れれています。にも関わらず権力欲の強い悪女として描かれることが多いのは。長孫皇后が死去しああと、後宮の最高位の女性であり続けたこと。同時代に皇后や皇帝になった武則天がいたのに、韋貴妃は皇后にはなれなかったこと。が影響しています。

後の時代の作家は韋貴妃を武則天と正反対の人物、ヒロインの敵として描きました。我々が見ているドラマの韋貴妃は、武則天の引き立て役として歪められた姿なのです。

4.3 隋・唐
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アジア韓国歴史ドラマの史実

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