茗薇のモデル?怡親王妃・兆佳氏は十三皇子・胤祥の嫡福普

大清1.8.2 清の皇后妃嬪・女性皇族

十三福普 兆佳(ジョーギャ)氏は 愛新覚羅・胤祥の正妻。

胤祥は清朝の第4代皇帝康熙帝の十三皇子(阿哥)。

胤祥は怡親王になったので兆佳氏は「怡親王妃」と呼ばれます。

中国ドラマ「宮廷の茗薇(めいび)」では「兆佳 魚寧」という名前で登場します。ヒロイン茗薇が途中で名前を変えたのが「兆佳 魚寧」なのです。

ドラマの「兆佳 魚寧」と歴史上の怡親王妃 兆佳氏は「十三皇子(阿哥)胤祥の妻」という以外は共通点がほとんどありません。

でもモデルになった怡親王妃 兆佳氏はどのような女性だったのでしょうか?

ちなみに、ドラマ「瓔珞(エイラク)」に登場する怡親王は怡親王妃 兆佳氏が生んだ愛新覚羅・弘曉です。「怡親王」は世襲なので代々名乗るのです。

史実の兆佳氏はどんな人物だったのか紹介します。

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怡親王妃 兆佳(ジョーギャ)氏 の史実

いつの時代の人?

生年月日:1688年(康熙27年)
没年月日:1766年(乾隆31年)
享年78。

姓:兆佳(ジョーギャ)氏
称号:怡親王妃
父:瑪爾漢(マルハン)
母:不明
夫:胤祥(いんしょう)

子供
胤祥との間に5男2女。

第三男・弘暾 康煕49年
第四男・弘晈 康煕52年
第五男・弘㫛 康煕55年
第七男・弘曉 康煕61年
第八男・綬恩 雍正4年

第二女・郡主 康煕46年
第四女・和碩和恵公主 康煕53年

清王朝の第6代皇帝・乾隆帝の時代です。

日本では江戸時代になります。

おいたち

父は満洲正白旗人の恭勤公・瑪爾漢(マルハン)
兆佳(ジョーギャ)家はそれほど大きな一族ではありません。瑪爾漢は康煕帝に仕え、呉三桂の乱の鎮圧などで活躍しました。康煕帝を支える大臣のひとりになります。

1688年(康熙27年)。兆佳氏は瑪爾漢の七女として生まれました。

1705年(康熙44年)。康煕帝の十三皇子・胤祥と結婚。嫡福普になりました。

1707年(康煕46年) 次女(兆佳氏の長女)郡主(名前不明)が生まれました。

1710年(康熙49年) 第三男(兆佳氏の長男)弘暾が生まれました。1728年に死亡。

1713年(康煕52年) 第四男(兆佳氏の次男) 弘皎が生まれました。

1714年(康煕53年) 第四女・和碩和恵公主が生まれました。 

1716年(康煕55年) 第五男(兆佳氏の三男) 弘㫛 が生まれました。

1722年(康煕61年) 第七男(兆佳氏の四男) 弘曉 (後の怡親王)が生まれました。
 (ドラマ「瓔珞」に登場する怡親王は愛新覚羅・弘曉のほう)

1722年(康熙61年)。康煕帝死去。雍正帝が即位。
胤祥は「怡親王」になりました。
兆佳氏は「怡親王妃」になりました。

息子の弘皎が郡王になりました。

1725年(雍正3年) 第八男(兆佳氏の五男) 綬恩が生まれました。

1729年(雍正7年)。娘の和恵公主がモンゴルの王子ドルジセプテン(多爾濟塞布騰)と結婚。

1730年(雍正8年)。夫の胤祥が死亡。享年46。

1731年(雍正9年)。娘の和恵公主が出産後に死去。

娘と夫が立て続けに亡くなります。

1735年(雍正13年)。和恵公主の夫・ドルジセプテンが死去。

ドルジセプテンと和恵公主の息子・サンジャドールをひきとって北京で育てました。

1766年(乾隆31年)。死去。享年78。

皇子の結婚相手なので詳しい資料がほとんど残っていません。でも当時としては長生きして子供にも恵まれました。

テレビドラマ

宮廷女官 若曦 2018、中国 役名:兆佳氏 演:王曉慶

宮廷の茗薇 2019、中国 役名:兆佳・魚寧 演:李蘭迪(リー・ランディー)

現代人の徐薔薇(じょ・しょうび)が転生したのが、清朝時代の雅拉爾塔・茗薇。
ところが茗薇は宮中の争いに巻き込まれ死亡したことにされました。
康熙帝のはからいで兆佳・魚寧として生きることになり。兆佳・魚寧は十三皇子の妻になりました。ところが太后と納蘭貴妃によって毒殺されます。最後は十三皇子の腕の中で息絶えました。兆佳・魚寧の意識は現代に戻り徐薔薇として暮らします。

ドラマでは十三皇子の妻になったので兆佳氏という事になってますが。十三皇子の妻という立場が同じだけで歴史上の兆佳氏とはほとんど共通点がありません。

ドラマの中では兆佳氏は若くして死亡していますが。歴史上の怡親王妃 兆佳氏は乾隆帝の時代まで生きて子供も7人います。

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