恵文后、宣太后と争って処刑された王妃

恵文后は古代中国・秦の恵文王の正室。昭襄王の義理の母になります。

中国ドラマ「ミーユエ」ではヒロイン羋月(ミーユエ、宣太后)のライバルとして登場する羋姝(ミーシュ)が恵文后になります。

宣太后と恵文后は同じ楚国出身でしたが、王位争いをめぐり対立。恵文后は宣太后との争いに負けて処刑されます。

史実の恵文后はどんな人だったのでしょうか。

宣太后とは

姓:魏(ぎ)
名前:不明
称 号:恵文后(けいぶんこう)
生 年:不明
没 年:紀元前305年
父:不明 
母:不明
子:武王

恵文后の生きた時代とは

宣太后が生きたのは紀元前3世紀の春秋戦国時代。
当時は周が分裂していくつかの国が争っていました。当時存在した主な国は秦・趙・楚・魏・燕・韓(朝鮮半島の国とは別物)などです。

恵文后が産まれたのは中国南東部になった楚(そ)という国。宣太后と同じ国です。

日本では弥生時代になります。

恵文后のおいたち

姓が「羋(び)」ではなく「魏(ぎ)」だったので王族ではなかったのかもしれません。

ドラマミーユエでは楚出身というのをわかりやすくするためか姓は羋になっています。

紀元前334年。秦の恵文王の正室になりました。姓をとって魏夫人と呼ばれます。

紀元前329年。蕩(後の武王)を出産しました。

紀元前311年。恵文王が死去。恵文王と恵文王后(魏夫人)との間に生まれた蕩(武王)が即位しました。

武王の時代も恵文王の家臣たちが残って政治を行いました。恵文王に仕えていた魏冄も重視として武王に仕えました。魏冄は宣太后の弟です。

紀元前307年。武王は腕力が強く力試しが好きでした。あるとき孟説(もうせつ)という力持ちと鼎(てい)という鍋のような青銅器を持ち上げて力比べしました。ところが脛骨を骨折して死亡してしまいます。

孟説は責任を取らせれて処刑されます。。

武王の後継者を巡って争いが起こる

武王には正室の武王后との間に息子はいませんでした。側室との間に息子の公子荘がいたので重臣たちは公子荘を次の王にしようとします。ところが宣太后と彼女の弟・魏冄(ぎせん)は燕国に人質に出されていた稷(しょく)を担ぎ出して王にしようとしました。

秦の重臣たちの多くは稷が王になるのは反対でした。しかし宣太后と魏冄は趙国の武霊王の助けも借りて強引に稷を秦の王にしてしまいます。稷は即位して昭襄王(しょうじょうおう)になりました。

息子が秦の国王になる

昭襄王は18歳とまだ若かったので宣太后が摂政になり。弟の魏冄が実権を握って政治を行いました。弟の華陽君も左宰相になりました。宣太后の一族が秦を動かすことになったのです。

紀元前305~306年。王位争いで敗れた公子荘は不満を持ち続けました。そして公子荘は昭襄王に快く思わない人々を集めてて反乱を起こしました。しかし反乱はすぐに鎮圧されてしまいます。

このとき、恵文后も公子荘を支持しました。しかし反乱が失敗すると公子荘に味方した大臣は処刑されます。恵文王后も捕まり処刑されてしまいました。武王の妃・武王后は逃亡して出身地の魏国に逃げました。

これにより宣太后と魏冄の力はますます強くなり、宣太后一族の時代がきます。


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