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建文帝・優柔不断な理想主義者の皇帝

明2.1 明の皇帝

建文帝は明朝の第2代皇帝です。

建国者の洪武帝 朱元璋の孫です。

幼い頃から学問好きで優しい性格でした。

祖父の死後、皇帝に即位。

ところが皇族のもつ軍を削減したことで叔父たちと対立。燕王 朱棣(後の永楽帝)に反乱を起こされました。圧倒的な兵力をもち有利な立場にいたはずですが。軍を指揮できる有能な指揮官が足りなかったこと。建文帝の優柔不断な性格が災いして4年間の内戦状態になってしまいます。

即位した期間のほとんどを内戦に費やしました。

最後は首都・南京を攻められて宮殿に火を放ち行方不明になってしまいます。

史実の建文帝はどんな人物だったのか紹介します。

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建文帝の史実

いつの時代の人?

生年月日:1377年12月5日
没年月日:1402年?

姓 :朱(しゅ)
名称:允炆(いんぶん)

国:明
地位:皇太孫→皇帝
呼称:建文帝
廟号:恵宗(南明 弘光帝 時代)

父:朱標
母:呂氏
正室:馬皇后
側室:多数

子供:
朱文奎(太子)
朱文圭

彼は明朝の第2代皇帝です

日本では室町時代になります。

 

おいたち

朱允炆(しゅ いんぶん)洪武10年11月5日(1377年12月5日)に誕生。

父は皇太子 朱標(しゅ ひょう)
母は呂氏。朱標の側室でした。

祖父は洪武帝 朱元璋(しゅげんしょう)

洪武11年(1378年)朱標の正室・常氏が死去。
母の呂氏が太子妃になりました。

父の皇太子・朱標は穏やかな性格。洪武帝が重臣を粛清するのを諌めたりしていました。心のやさしい朱標は、洪武帝からは頼りなく思われていたようです。

朱允炆は次男でした。でも長男・朱雄英は幼いときに亡くなっていたので。朱允炆は事実上の嫡男として育てられました。太祖 朱元璋からも「嫡長孫」として可愛がられました。

洪武25年(1392年)4月。父・朱標が病死。

このとき洪武帝は四男の燕王・朱棣(しゅ れい、後の永楽帝)を皇太子にしようと思いましたが。重臣たちに反対され皇太子の子・朱允炆を跡継ぎにしたといいます。

後に朱棣が永楽帝になって歴史を改ざんしたので作り話の可能性もありますが。戦で手柄を立てている燕王・朱棣は洪武帝好みの人物だったのは確かでしょう。

祖父の太祖 朱元璋から「皇太孫」に指名されました。

洪武31年(1398年)。洪武帝 朱元璋が死去。

父・朱標の性格をうけつぎ朱允炆も穏やかな性格でした。幼いころから儒教を学び、学者仲間とも親しくしました。彼らの理想主義の影響を受けました。

洪武29年、朱允炆は祖父の洪武帝に「大明律(明の法律)」の改正を願い出て、礼記や歴代王朝の刑法などを参考にして、明の過激な法律を修正しました。

洪武31年(1398年)。洪武帝が死去。
皇太孫の朱允炆が即位しました。

建文帝の即位後

翌年の1399年に年号を「建文」にしました。朱允炆は「建文帝」と呼ばれます。22歳でした。

学問好きの朱允炆は、これからは武力ではなく学問の時代だと思ったのかもしれません。

学問仲間だった斉泰を兵部尚書(陸軍大臣)、黄之澄を太常寺卿(書記)に昇進させました。儒学者として有名だった方孝孺を翰林院侍講にしました。国事はこの3人に頼ることにしました。

洪武帝時代は独裁政治で罰則が厳しく、重税でした。そこで減税したり、牢の罪人を減らたり。兵士の中から一人息子は除隊させました。

削藩改革

明の初代皇帝・洪武帝は。明を建国後、共に戦った仲間たちを粛清。息子たちを「藩王」に任命。全国に配置しました。藩王は軍隊を持っていました。洪武帝の命令で、藩王たちは明の建国に協力した仲間たちを粛清。明は朱一家が支配する国になりました。

建文帝が即位したとき。全国の「藩王」はまだ元気です。藩王のほとんどは建文帝の叔父か伯父です。彼らが年下で若い建文帝の言う事を素直に聞くはずがありません。

とくに燕王・朱棣は最も勇敢で軍人としての才能も優れてました。「朱棣を皇太子にしては」という意見もあったくらいです。

建文帝と斉泰、黄之澄、方孝孺たちは今の状況は「危険だ」と思いました。皇帝の座を狙う藩王がいつ反乱を起こすかわかりません。そこで「藩王を削減する」のが彼らの目標になりました。

藩王削減を主導したのは斉泰、黄之澄でした。彼らはまず周王・朱橚を逮捕しました。

建文帝は釈放しようとしたのですが、斉泰、黄之澄に押し切られ朱橚を廃して庶人にして流刑にしました。

大臣たちは建文帝のやさしさを「女のようだ」と評価しました。儒学者の使う「女のよう」は「弱々しい、意気地がない」という差別的意味です。斉泰、黄之澄たちは物分りのいい建文帝を利用していたのかもしれません。

斉泰、黄之澄はその後も数ヶ月の間に、湘王、齊王、代王、岷王を廃しました。

でも本命の燕王・朱棣には手を出しませんでした。逮捕する口実がなかなか見つからなかったのと。仲間になりそうな藩王を減らして、燕王を孤立させようとしたのでしょう。

燕王は削減される藩王を庇おうとして朝廷との対立を深めていきます。

結局、朝廷は燕王・朱棣に危機感をもたせて軍を整える時間を与えてしまいました。相手がどう動くかを考えずに自分の理屈だけで考えてしまう知識人政治家の欠点がでてしまったようです。

靖難の変

建文元年(1399年)。燕王・朱棣が領地の北平(北京)で挙兵しました。

燕王・朱棣は次々に周辺の街を陥落させ。一月と立たない間に数万の兵を集めました。

明の官軍は50万の兵力をもち、圧倒的な戦力がありました。ところが有能な武将は洪武帝が粛清しているので、ろくな武将がいません。官軍は戦力差をいかせずにずるずると敗北を重ねます。

また建文帝の優柔不断さも戦いには不利でした。

建文帝は優勢に戦っているときに「叔父殺しの汚名は負いたくない」と軍に手加減するように命令を出してしまいます。

謀反を起こした燕王・朱棣は死ぬ気で戦っています。

内部からも裏切り者がでました。建文帝は宦官を減らして政治への参加を禁止していました。儒教好きの建文帝は宦官を卑しい存在で奴婢と同じだと考えました。建文帝を恨む宦官は多く、宮中の機密情報を密かに燕王・朱棣に漏らしました。

歴代王朝を見れば宦官を減らして政治に参加させない。という建文帝の方針は正しいのですが、彼らに厳しすぎたのでしょう。

戦いを知らない建文帝は目先の戦況の変化にうろたえて命令を出して軍を混乱させました。

官軍は有利な数を活かせず、兵を有効に活用できる将軍にも恵まれず、優柔不断な建文帝の性格も災いして、裏切り者も出て戦いは長引きます。

建文帝は誤情報を信じて戦っている将軍を呼び戻しました。

その直後。

 建文4年6月13日(1402年7月13日)
首都・南京は燕王の軍に包囲され、陥落しました。

建文帝は燕王軍が迫るのをみて宮殿に火を放ちました。その後、皇后の遺体は発見されましたが、建文帝と太子の遺体は発見されませんでした。火災で消失したと考えられています。

建文帝を支えた学者グループは永楽帝によって粛清されました。

この戦いを「靖難の変」といいます。永楽帝を正当化する立場からは「靖難の役」ともいいます。(「変」は反乱や普通ではない戦い、「役」は戦争、正規軍同士の戦いの意味)

学問好きで優しい建文帝は独裁をやめて新しい世の中を作ろうとしました。でも政治は本に書いてあるとおりにはいきません。いくら本を読んで勉強しても問題が起きたら対応できない、知識人政治家の悪い部分が出てしまったようです。

死後、皇帝と認められない朱允炆

その後。燕王・朱棣が即位。永楽帝になりました。
永楽帝は建文帝は即位していなかったことにしました。記録から「建文」を削り。「建文」という年号もなかったことにしました。

明が続く間、朱允炆は皇帝とは認められませんでした。洪武帝が死去して永楽帝が即位するまでの4年間は皇帝の座は空いていたことにされたのです。

ただ建文帝の存在を消すことにためらいのある人もいました。明が続く間に何度か議論になりました。「建文」の年号の存在を認めたのは明朝末期の「万暦」年間。
建文帝を皇帝だと認め「恭閔恵皇帝」の称号を与えたのは清朝。
建文帝に「恵宗」の廟号を与えたのは明の残党が作った南明でした。

死後。

建文帝が生きていた。という噂話がいくつも作られました。
秘密の抜け道を通って外に脱出。雲南・貴州・四川などで僧侶の姿になって潜伏していた。などの噂話があります。

建文帝の生き残り伝説がいくつも作られたのは。建文帝が減税したり、刑罰を軽くしたりして庶民には人気があったからだといわれます。

テレビドラマ

大明皇妃 2019年 演:譚学亮
ドラマでは南京が陥落後、行方不明。身を隠しています。
その後、発見されて密かに永楽帝と会って和解することになってます。
現実には永楽帝が建文帝を許すはずがありませんから。もし逃げ延びていたとしても見つかったら間違いなく殺害されます。

ドラマでは永楽帝は主人公勢力なので悪く描くわけにも行かないのでしょう。

 

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