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光武帝・漢を再興して儒教国家を作った皇帝

漢 7 漢

光武帝・劉秀(りゅう・しゅう)は後漢の初代皇帝。

王莽に滅ぼされた漢を再興させた人物です。

後漢は約200年、三国志の時代まで続きます。

光武帝はそれは儒教を国教にした王朝だからです。前漢の時代から儒教は広まりつつありました。でも朝廷の中心になる考えとして本格的に儒教を採用したのは後漢からです。

儒教国家になった後漢は後の中華王朝に大きな影響を与えました。

光武帝は日本とも縁のある人物です。光武帝の時代に「倭国」から使者が来て金印を与えました。

劉秀が光武帝に即位するまでの道のりはこちら。

劉秀 が 漢の再興を目指して光武帝に即位するまで
劉秀(りゅう・しゅう)/光武帝は後漢の初代皇帝。 漢は王莽にクーデターを起こされて一度は滅びました。 王族の血筋をひく劉秀が漢(後漢)を再興しました。 劉秀の一族は前漢の王族の子孫で南陽(現在の河南省付近)に移住。豪族になっていました。 新...

この記事では即位後の光武帝・劉秀を紹介します。

光武帝は皇帝に即位した後、どのような国をつくろうとしたのでしょうか。

この記事では劉秀が皇帝に即位してから最期までを紹介します。

 

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劉秀/光武帝の史実

いつの時代の人?

生年月日:前5年1月15日
没年月日:57年3月29日

姓 :劉(りゅう)氏
名称:秀(しゅう)
字:文叔

国:漢
地位:皇帝
称号:光武帝

父:劉欽
母: 樊嫻都
正妻:
郭聖通(郭皇后)
陰麗華(光烈皇后)

子供:
明帝 劉荘
他、

日本では弥生時代になります。

劉楊を味方にして10万の兵を手に入れる

劉秀は兄とともに挙兵後。更始帝の配下になって河北の平定を行っていました。劉楊を味方にするため劉楊の姪の郭聖通と結婚。

更始2年(24年)5月。劉楊や各地の兵を集めた劉秀は邯鄲を攻め王郎を滅ぼしました。

その後、劉秀は更始帝から独立しました。

皇帝即位ブームの中で劉秀が皇帝になる

更始3年(25年)正月。方望と弓林が劉嬰(りゅう・えい)を担いで天子にしました。劉嬰は前漢・宣帝のひ孫です。劉嬰は更始帝に討たれました。

4月。四川の公孫述が天子に即位して「成」を建国。

6月。今度は赤眉軍が劉盆子(りゅう・ぼんし)を天子にしました。元号を「建世」にしたので劉盆子は「建世帝」と呼ばれます。赤眉軍は更始帝軍を各地で破って勢いがありました。

すでに更始帝は各地の「自称天子」を討つことができなくなっていました。こうなったら皇帝も言ったもの勝ちです。

すると6月22日。劉秀の配下からも「劉秀を天子に」という意見が出ました。

劉秀は3回断り4回目に引き受けて即位しました。このとき「赤伏符」という予言書を使って自らの即位を正当化しました。

元号から「建武帝」とも諡(おくりな)から「光武帝」と呼ばれます。

国号を「漢」、元号を「建武」にします。「洛陽」を首都にしました。正式な国号は「漢」ですが、劉邦の建国した漢は一度滅んでいるので「後漢」ともいいます。

9月。更始帝は赤眉軍に敗れ敗走。12月、更始帝は処刑されました。長安を略奪した赤眉軍は山東に帰りました。

すると更始帝の配下で独立をうかがっていた劉永(りゅう・えい)が睢陽で「天子」を自称します。

劉楊の抹殺

建武2年(26年)。郭聖通を皇后に、郭聖通の子・劉彊を皇太子にしました。

建武2年(26年)春。光武帝は皇帝になったものの「劉楊のおかげ」という負い目がありました。血統的にも劉楊の方が本家に近く。劉楊が邪魔になります。

すると劉楊が謀反をたくらんでいるという情報が入ってきました。光武帝は陳副と鄧隆を派遣。劉楊は会おうとしません。そこで耿純を派遣、諸侯に劉楊にあったら生け捕りにしろと命令を出します。耿純は劉楊を油断せせておびき寄せ、劉楊を抹殺しました。

鄧奉の反乱

建武2年(26年)。董訢たち荊州の武装勢力は光武帝に従いません。そこで呉漢を討伐に向かわせました。ところが呉漢軍は各地で略奪しました。

故郷の新野が略奪されたのに怒った鄧奉(とう・ほう)が反乱を起こしました。

鄧奉は董訢たちと協力して漢軍と戦いました。精鋭ぞろいの鄧奉軍に漢軍は苦戦します。

建武3年(27年)3月。光武帝はついに自ら鄧奉の討伐のため出陣しました。光武帝軍の攻撃に董訢は降伏。光武帝は鄧奉も破り降伏させました。光武帝は鄧奉を許そうとしましたが、岑彭と耿弇が処刑を主張。光武帝は鄧奉を処刑しました。

各地の勢力を撃破

建武2年(26年)。劉秀は将軍の蓋延と蘇茂に劉永の討伐を命令。ところが蘇茂は劉永に寝返ってしまいます。それでも蓋延は戦いを続け睢陽を攻略。劉永は逃亡します。

建武3年(27年)。劉秀は馮異を赤眉軍討伐に向かわせました。馮異は一度は赤眉軍に敗れましたが、軍をたてなおして赤眉軍と戦い勝利。さらに補給を断って赤眉軍を兵糧攻めにすると、赤眉軍は降伏しました。光武帝はまだ十代の少年だった劉盆子を哀れんで叔父の劉良の配下につけました。

建武6年(30年)。山東を平定
建武9年(33年)。隴西を攻略。隗囂(かい・ごう)は死亡。息子の隗純が抵抗を続けました。
建武10年(34年)。隗純を降伏させました。

こうして各地の勢力を討伐・降伏させ。

建武12年(36年)。蜀の公孫述を滅ぼしました。
光武帝は中国を統一しました。

陰麗華を皇后にする

以前から不満の多い郭聖通への寵愛は薄れていたようですが。中華統一して河北の武将への気遣いも必要なくなり。光武帝は皇后の郭聖通を遠ざけるようになります。

建武17年(41年)。郭聖通を廃して陰麗華を皇后にしました。

建武19年(43年)には陰麗華の息子・劉荘を皇太子にしました。

 

光武帝の政治

洛陽に漢の初代皇帝・劉邦の廟を作り。自分が「漢」の正統後継者だとアピールします。様々な制度も漢を引き継ぎました。

ところが前漢末期に6千万人いた人口は光武帝が即位した後漢初期には2千万人にまで減っていました。災害や飢饉、戦争で多くの人が田畑を放棄して流浪して、命も失いました。食べ物がないので人も食べました。

そこでまずは疲弊した国の立て直しが大きな課題でした。

軍の改革

光武帝は徴兵制を廃止しました。前漢・新の時代には徴兵制がありました。兵役が終わると軍をやめて農民に戻ります。新朝の時代、全国で挙兵が起きたのは軍隊経験があって戦える者が全国にいたからです。反乱軍を育てるようなものです。

そこで徴兵制をやめて軍の組織も簡素化。建国に貢献した将軍たちも皇帝直轄軍に配属しました。

国内にはこれといった敵もいないので大軍は必要ありません。軍のリストラを行って経費削減したのです。

奴隷解放と農民の安定

光武帝は何度か奴隷解放の命令を出しました。
貧しいものや年老いたものへの食料の配給も行っています。

光武帝は緑林軍、赤眉軍、銅馬軍など反乱軍と一緒に戦っていました。極貧にある者や虐げられている者が反乱を起こすのをよく知っていました。

減税も行いました。

こうして軍役を減らし奴隷から開放させることで、人々の不満を減らし農業を行う人を増やしました。

土地改革の挫折

光武帝は豪族の所有する土地を制限しようとしました。前漢の武帝のように皇帝が力を持つ国にしたかったようです。そこで光武帝は戸籍と土地の調査を行いました。

ところが豪族は地方の長官と癒着しているので嘘の申告をします。持ってる土地を少なく申告するのです。そこで光武帝は強制捜査を行いました。うそがバレると困るので豪族たちは反乱、戸籍に載っていない農民たちもいたので反乱を起こしました。

そこで光武帝は反乱を起こしたものでも他の反乱者を告発すれば許す。5人の反乱者が一人の反乱者を殺せば5人とも許すと。命令を出しました。

高官を厳しく処罰、反乱が起きた地域の太守を処刑。地方の役人の処罰は甘くしました。地方の役人を厳しく処罰すると彼らも反乱軍に加わるからです。光武帝の思惑通り反乱軍の中で裏切りが相次いで反乱軍は崩壊しました。

でも光武帝はそれ以上調査を使用とはしませんでした。やはり土地の制限は難しかったのです。

その代わりではありませんが。諸侯や郡侯に与える土地は前漢時代よりも少なめにしています。光武帝・劉秀兄弟や劉玄たちは地方の勢力からのし上がりました。自分たちの経験があるので地方の勢力が力をつけるのを防ごうとしたのです。

儒教国家の成立

前漢時代の途中から儒教が採用され、前漢の終わりから新の時代には朝廷内では儒教が広まりつつありました。

光武帝は若いころ儒教を勉強した儒学生でした。そこでさらに儒教を広めようとしました。

基本的には王莽が行った行ったことを漢の現状にあわせて改良した制度です。太学には五経博士をおいたり。官僚や豪族たちにも儒教を学ばせました。

皇帝に即位するときも讖緯説(しんいせつ)という予言や吉兆で自分の即位を正当化する理屈を利用しました。

でも讖緯説を放置すれば反乱を正当化してしまいます。そこで讖緯説の書物を整理して後漢を正当化する物だけを残して他は処分しました。

儒学者の中には讖緯説に反対する者もいました。孔子は讖緯説を言っていないからです。でも光武帝は讖緯説に反対する儒学者を処刑したり弾圧しました。

人事採用にも儒教を採用しました。当時は科挙はありません。郷挙里選(きょうきょりせん)という制度があります。

武勇や政策の提案など様々な採用基準があります。光武帝が一番、需要だとしたのは孝著(こうちょ)という徳目。孝行や清廉など儒教の教えを実践している人を採用するというもの。

人事の採用基準に儒教の教えを入れて役人や豪族たちにも儒教の教えを広めようとしたのです。

後漢は儒教を国教として広め。儒教で国作りをしました。その考えは後の中国王朝の基本になります。漢が中国文明の基本みたいにいわれるのはそのためです。

ところがこの郷挙里選は後に漢王朝を堕落させる原因になります。

儒教の教えを実践しているといっても、儒教の「孝」や「清廉」は客観的に判断ができません。人の評判に頼るしかないのですが、賄賂の多い中国では推薦はあてになりません。外面だけ良くすることもできます。後漢の朝廷や役人はやがて嘘つきと偽善者の集まりになり腐敗。朝廷は機能しなくなり三国志の時代になってしまうのです。

晩年

56年。元号を建武中元に改元。

建武中元2年(57年)正月。倭奴国から使者が来ました。
「倭奴国」は「倭の奴国」か「倭奴国(いとこく=福岡県糸島市にあった小国)」などの説があります。
このとき光武帝が与えた金印が志賀島でみつかった「漢委奴国王」の金印だといわれます。

2月。死去。享年62。

 

テレビドラマ

秀麗伝〜美しき賢后と帝の紡ぐ愛〜 2016年、中国 演:ユアン・ホン

 

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