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和親王・弘昼|ドラマの悪役は「デタラメ爺さん」と呼ばれる変人だった

4.7 清・金

愛新覚羅・弘昼は清朝の第5代皇帝・雍正帝ようせいていの皇子。

酒好きで、性格は短気だったともいわれます。歴史書には「自分の葬式を行って楽しむ」という奇行が書かれれています。

そのせいかドラマでは悪役にされることも多いです。

「瓔珞<エイラク>」「如懿傳」でも登場。
爵位の「和親王」で呼ばれることも多いです。

史実の愛新覚羅・弘昼はどんな人物だったのか紹介します。

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和親王・弘昼の史実

いつの時代の人?

生年月日:1712年1月5日
没年月日:1770年9月2日
享年58

姓:愛新覚羅(あいしんかくら、アイシンギョロ)
名:弘昼(こうちゅう、ホンジョウ)
称号:和碩和親王 (わせきわしんおう)
諡号:恭 
父:雍正帝
母:純懿皇貴妃耿氏
正室:吳扎庫氏
側室:章佳氏、佟氏、崔佳氏
子供 8男1女

清王朝の第6代皇帝・乾隆帝の時代です。

日本では江戸時代になります。

名前について

旧字体では「弘晝」、新字体では「弘昼」と書きます。

「晝」は「ひる」の意味。「昼」の旧字体です。
似てますが「書」ではありません。

おいたち

1712年(康熙5年)。雍親王(後の雍正帝)・胤禛(いんしん)の第五皇子として生まれました。

母は雍親王の格格(側室)だった耿氏(純懿皇貴妃)。乾隆帝の即位後は皇考裕皇貴太妃(ドラマでは裕太妃)と呼ばれました。

幼いころ。雍親王の正室:烏喇那拉(ウラナラ)氏(孝敬憲皇后)には男子がいなかったので烏喇那拉(ウラナラ)氏の養子になりました。

1733年(雍正11年)。和碩和親王 (わせきわしんおう)になりました。

雍正帝の晩年。成人した息子は第四皇子・弘暦(乾隆帝)、第三皇子・弘時と第五皇子・弘昼でした。三人の兄弟が後継者を巡って争うことになります。

最も頭がよく有力候補と思われていたのは第四皇子・弘暦でした。弘昼は後継者争いに巻き込まれるのを嫌って無能なふりをしたといいます。

というのも父・雍正帝には多くの兄弟がいて後継者を巡って争いが起こりました。雍正帝即位後も父の兄弟達は粛清されほとんど残りませんでした。和親王はそんな叔父・伯父たちの末路を見て育ちました。

弘昼は僧侶や道士(道教の祭祀を行う人)と仲良くして日頃から付き合っていました。一日中仏事を行うこともあったといいます。

弘暦は年が同じで弘昼とは仲がよかったといいます。

1735年(雍正13年)。雍正帝が死去。兄・弘暦が皇帝になりました。

12月。和親王は内務府と御書処の事務を任されました。

乾隆帝の時代

1739年(乾隆4年)。和親王・弘昼は雍和宮の管理を任されました。雍和宮は父・雍正帝が皇子時代に暮らしていた館です。乾隆帝は父のもっていた財産も弘昼に与えました。

満洲白旗の都統(長官)になりました。

乾隆時代の最初のころ。弘昼は軍機大臣の納親(ナチン)と喧嘩することがありました。納親の伯母は康熙帝の正室・鈕祜祿氏。朝廷内の実力者です。

あるとき、弘昼は納親(ナチン)と意見があわず議論が白熱して納親を殴ってしまいました。乾隆帝はその様子を目て静かに止めさせましたが、弘昼に処分はありませんでした。

そのため、人々は弘昼を挑発するような真似はしなくなりました。

1740年(乾隆5年)。満洲鑲黄旗の都統(長官)になりました。八旗軍の運用ルールを決める作業を担当しました。

1746年(乾隆11年)。奉宸苑の管理を任されました。

1752年(乾隆17年)。内務府

1753年(乾隆18年)。法政大臣になりました。

1763年(乾隆28年)。正黄旗覚羅学の管理を任されました。覚羅学とは雍正帝時代に作られた皇族の子どもたちを教える学校です。

1770年(乾隆35年)7月9日。乾隆帝は病気の弘昼を見舞いました。それから数日した7月13日。弘昼は死亡しました。享年58.

死後、乾隆帝から「恭」の諡号を与えられました。「恭」には「つつしむ、へりくだる」という意味があります。

次男・永璧が和親王の爵位を引き継ぎました。

自分で葬式、おかしな行動をとる弘昼

弘昼は気性が荒く短気な性格でしたが、年をとると奇行が目立つようになりました。

死について語ることは縁起が悪いと考えるのはどこの国でも同じです。ところが、弘昼は違いました。死んだふりをして自分で葬式をあげることがありました。自分の屋敷に祭壇を作り自分の葬式をしました。家の者たちに泣かせて、弘昼は棺桶に入ってその泣き声を聞いて楽しんでいました。

また自分のベットの周りにいくつも冥器(盆や命日に飾る供え物。故人が生前好きだった物を模して作られることが多い)を飾っていました。

人々は「荒唐王爺」(デタラメ王爺さん)とあだ名しました。
 荒唐無稽の荒唐。意味は「とりとめのないこと、根拠のないこと、デタラメ」です

弘昼のおかしな行動は朝廷の内外で議論を巻き起こしました。でも乾隆帝は弘昼を責めたりはしません。

弘昼はたくさんの詩を作りました。その中に「黄金の詩」とよばれるものがあります。その中で弘昼は「私は皇位を争いたいのではない、ただ願うのは酒を飲んで歌って楽しい時を過ごしたいのだ」と述べました。

この詩は後世には「命の詩」と言われました。

乾隆帝は弘昼が自分の地位を脅かす存在ではないと考えました。

乾隆帝は弘昼の死後「恭」という諡号を与えました。「へりくだる」「うやうやしい」という意味です。弟は自分に従っている「恭順している」と思ったいたのでしょう。

死因の謎

歴史上の弘昼はあまり評判のよくない人物なので、ドラマでも悪役として描かれ悲惨な死に方をすることもあります。

歴史書でも、乾隆帝が弘昼の家を訪れた数日後に死んでいます。

そこで問題を起こす弘昼を乾隆帝が殺したのではないか。という説があります。

でも中国王朝では、王族が死罪になる場合には生前に身分や地位を取り上げて自害させることが多いです。そして死後も身分や爵位は取り上げられたままです。子孫がその地位を引き継ぐこともできません。下手をすると子供や家族も連帯責任で処刑されます。爵位を子孫が引き継ぐことはできません。

しかし弘昼は死後も「和親王」として系譜に載っています。弘昼の子が「和親王」の地位を引き継ぎました。

もし自害させたのなら歴史書にそのように残るはずです。しかも弘昼は普段から問題を起こしています。処刑命令を出しても皇帝の威信が傷つくことはありません。処刑や自害させたのなら隠す必要はないのです。

弘昼は単に病気で死亡しただけだったのでしょう。弘昼は酒が好きだったので酒の飲みすぎで死んだ。日頃の暴飲暴食がたたって死期を早めたのではないかという説もあります。

確かに問題行動も多い弘昼ですが、皇帝の地位を脅かすようなことはしていません。大きな事件をおこすようなこともありません。

弘昼が計画的に愚かなふりをしていたのか、本当に愚かだったのかはわかりません。

そんな弘昼に乾隆帝はたっぷりの財産を与え、多少のトラブルも許していました。

乾隆帝にとってはバカだけれどもかわいい弟だったのかもしれません。

テレビドラマ

瓔珞〜紫禁城に燃ゆる逆襲の王妃〜 2018、中国
 役名:  演:洪堯

瓔珞の姉・璎寧を死に追いやった張本人。謀反を起こそうとしますが失敗、最後は賜死。

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