許胭脂のモデル「許美人」 は 謎の多い漢光武帝の側室

漢5 漢

許美人は後漢の光武帝 劉秀の側室です。

中国ドラマ「秀麗伝〜美しき賢后と帝の紡ぐ愛〜」では 許臙脂(きょ・えんし) という名前で登場します。

「瓔珞<エイラク>」の「魏瓔珞」役や「コウラン伝」の「李皓鑭」でおなじみの呉謹言(ウー・ジンイェン)が演じています。

許美人は記録が少なく謎の多い人物です。

光武帝との間には息子の劉英が生まれ、楚王になりました。

光武帝の死後は、息子の劉英とともに暮らしました。

史実の許美人はどんな人物だったのか紹介します。

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許美人の史実

いつの時代の人?

生年月日:不明
没年月日:86年

姓 :許(きょ)氏
名称:不明
国:新→漢(後漢)
称号:許美人

父:不明
母:不明
配偶者:劉秀(光武帝)

子供:劉英(楚王)

彼女が生きたのは後漢時代の光武帝の時代です。

日本では弥生時代になります。

 

光武帝の時代

生年、出身地、両親は不明。

許(きょ)氏という姓だけ伝わっています。

後漢の初代皇帝・光武帝の側室の一人。

光武帝には息子が11人いますが。陰皇后と郭皇后の他では男子を産んだ側室は許美人だけです。

いつ光武帝の側室になったのかはわかりません。

建武15年(39年)。息子の劉英を出産。

建武17年(41年)。劉英に「楚王」の称号が与えられました。

許美人はあまり寵愛はうけていなかったようです。そのため息子の劉英は光武帝の中でも与えられた領地が最も少なかったのです。

でも劉英は皇太子の劉荘とは仲が良かったようです。劉英は一人で劉荘のお供をすることも多くありました。

明帝の時代

建武中元2年(56年)。光武帝が死去。陰皇后の息子・明帝が即位しました。

許美人は洛陽の宮殿を出て息子の楚王・劉英のいる楚宮で暮らしました。

許美人には「太后」の称号が与えられました。許太后と呼ばれます。

明帝が彭城を訪れ、許太后と劉英妻子に会いました。明帝は涙を流して喜びました。

永平元年(58年)。甥の許昌が「龍舒侯」の爵位を与えられました。

永平8年(65年)。楚王・劉英は「謀反の疑いあり」として訴えられましたが、冤罪だったので明帝は許しました。

この時代。漢には仏教が伝わり。劉英は仏教を信仰していました。でも、仏教の教えを理解しているわけでなく、仏をご利益のある「神」として信仰していたようです。

もしかすると許太后も仏を信仰していたかもしれません。

永平13年(70年)。楚王・劉英が謀反を企てていたとして訴えられ「楚王」の称号を剥奪され丹陽郡涇県に移されました。劉英の息子や娘たちには処分はありませんでした。

楚太后もそのまま楚宮で暮らしました。

永平14年(71年)。劉英が自害しました。明帝は使者を送り葬儀を行い「諸侯」の格式で葬りました。

永平18年8月(75年)。明帝が死去。明帝の子・章帝が即位しました。

元和3年(86年)。「許太后」が死去しました。

章帝は劉英の墓を改装し「楚侯」の称号を与えました。

 

テレビドラマの許美人

 秀麗伝〜美しき賢后と帝の紡ぐ愛〜 2016年、中国 演:呉謹言 役名:許臙脂

ドラマでは陰家で陰麗華に仕える侍女。いつも陰麗華のそばにいるので序盤から出番が多いです。

劉秀たちの挙兵前に苑城に送られ顧鄧嬋の世話をすることになりました。

その後、戦いが起こり逃走中に陰麗華とはぐれ敵兵に襲われ奴婢として売られてしまいます。売春宿にいたところを郭康に身請けされ劉秀の側室・許美人になります。劉秀の三男・劉英を出産(でも父親は郭康)。

史実では劉英は光武帝の子ですが、このような設定になっているのは劉英が兄弟の中では待遇が一番悪かった(それでも楚王ですが)せいかもしれません。

許臙脂(きょ・えんし)を演じているのは「瓔珞<エイラク>~紫禁城に燃ゆる逆襲の王妃~」の 魏瓔珞(ぎ・えいらく)や「コウラン伝」の 李皓鑭(り・こうらん)を演じた呉謹言(ウー・ジンイェン)さん。「秀麗伝」は「瓔珞<エイラク>」の2年前の出演です。

 

出典:amazon

 

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