宣太后・ミーユエのモデルは実在した秦の太后

春秋戦国6 春秋戦国

宣太后は秦の始皇帝の祖母。古代中国の戦国時代に生きた人物です。秦の始皇帝の高祖母になります。

(親) 宣太后ー昭襄王ー孝文王ー荘襄王ー始皇帝 (子)

という関係です。

中国ドラマ「ミーユエ」ではヒロイン羋月(ミー・ユエ、びげつ)として登場します。

宣太后の姓は羋(中国語では”ミー”、日本語では”び”)。名前は分かっていません。羋月(ミーユエ)はドラマの中での名前。ミーユエの漢字表記は「羋月」です。

宣太后は息子を王にしたあと若い王に代わって政治を行いました。

史実の宣太后とはどんな人だったのでしょうか。

 

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宣太后とは

姓:羋(ミ、び)
名前:不明
別 名:羋八子(ミーバジ)
称 号:宣太后(せんたいこう)
生 年:紀元前337年
没 年:紀元前265年
父:不明 
母:不明
子:昭襄王・公子芾・公子悝

宣太后の生きた時代とは

宣太后が生きたのは紀元前3世紀の春秋戦国時代。
当時は周が分裂していくつかの国が争っていました。当時存在した主な国は秦・趙・楚・魏・燕・韓(朝鮮半島の国とは別物)などです。

宣太后が産まれたのは中国南東部になった楚(そ)という国。

後に中国を統一する秦(しん)は楚の西隣にあった国です。

日本では弥生時代になります。

宣太后のおいたち

宣太后は古代中国・春秋戦国時代の楚(そ)の国の王族として産まれました。

宣太后の親は楚の王族。しかし両親の名前は分かっていません。ドラマ「ミーユエ」では父は楚国王になっていますが、王の娘ではなかったようです。

秦の恵文王の側室になりました。秦の後宮には周辺国出身の妃や側室がいました。政略結婚や人質として送られてきたのでしょう。

紀元前325年に王子の稷(しょく、後の昭襄王)を出産。

後に稷は燕に人質に出されます。

その後、恵文王との間に高陵君と涇陽君も出産。

紀元前311年。恵文王が死去。恵文王と正室の恵文王后(魏夫人)との間に生まれた蕩(武王)が即位しました。

紀元前307年。武王が死去。
武王と正室の武王后との間に息子はいませんでした。そこで武王の弟達が後継者を巡って争いはじめました。

後継者争いが起こる

恵文王の正室・恵文妃は側室の産んだ公子壮を次の王にしようとしました。

羋八子は恵文妃に対抗して、自分が産んだ公子芾を次の王にしようと考えました。そこで、宰相の樗里 疾(ちょり しつ)にも協力を求めました。

ところが趙の武霊王が秦の後継者問題に介入してきました。

燕で人質になっている公子稷を王にしようというのです。秦の大臣たちは反対しました。でも魏冄は公子稷の即位に賛成でした。

魏冄も秦の恵文王に仕えていました。宣太后の兄弟でも特に頭がよく重臣として取り立てられていました。

宣太后と魏冄は趙国の武霊王の助けも借りて稷を秦の王にしました。稷は即位して昭襄王(しょうじょうおう)となりました。

息子が秦の国王になる

昭襄王は18歳とまだ若かったので宣太后が摂政になりました。18歳なら若すぎとはいえないですが。昭襄王は人質から戻ってきたばかり。秦国内に家来がいません。

昭襄王の影響力がないのをいいことに宣太后と弟の魏冄が実権を握って政治を行いました。弟の華陽君も左宰相になりました。宣太后の一族が秦を動かすことになったのです。

宣太后と兄弟の魏冄、華陽君は秦で大きな力を持っていたので「三貴」と呼ばれました。

紀元前305年。王位争いで敗れた公子荘が反乱を起こしました。公子荘の反乱はすぐに鎮圧されました。

昭襄王の兄弟で従わないものは全て処刑されました。さらに公子荘に味方した大臣や前国王の母・恵文王后は処刑され、前国王の妃・武王后は生まれ故郷の魏に追放されました。邪魔するものがいなくなり魏冄の力はますます強くなりました。

義渠王と事実婚

漢の時代に書かれた歴史書「史記」によると。

昭襄王の即位後、義渠(きぎょ)の戎王がお祝いのため秦に来ました。宣太后と戎王は親しくなり夫婦同然の関係になります。今風にいえば事実婚です。

王太后が異国の者と結婚するのは許されなかったので、秦としては再婚は認めていません。でも宣太后とその一族の力を考えれば黙認するしかなかったでしょう。

宣太后は義渠王との間に2人の子供を出産しました。

紀元前272年。昭襄王と宣太后は義渠を滅ぼす計画をたてました。まず宣太后が義渠王を誘い出して暗殺しました。

その後、昭襄王は軍を派遣して義渠を滅ぼし秦の領土にしました。さらに長城を作って北方の民族の侵入を防ぎました。

と書かれていますが、本当に宣太后が義渠王を裏切ったのかはわかりません。昭襄王が宣太后の名前を使って義渠王をおびき寄せたのかもしれません。宣太后は義渠王を招待しただけで、殺害は昭襄王の独断かもしれません。

「史記」とほぼ同じ時代に書かれた「戦国策」という書物では。義渠王を招待したのは宣太后ですが。義渠王を殺したのは昭襄王の意志と書かれています。「戦国策」は古い記録を集めて国順に並べた書物です。

宣太后が義渠王を騙して殺したという「史記」の内容は信憑性が低いですね。

だとすると親子で考えが違うので宮中ではかなり険悪な関係になっていたでしょう。

宣太后と兄弟の魏冄や華陽君など宣太后の一族が秦の朝廷内で大きな力を持っていました。魏冄達、宣太后の一族は私服を肥やし財産は王室よりも多かったといいます。

義渠の武力を味方にした宣太后とその一族は秦の国内でも大きな影響力を持っていたのです。

でも昭襄王にとっては母が父以外の男しかも異民族と再婚するのは許せなかったのかもしれません。秦の臣下たちもなんとかして義渠を滅ぼして宣太后の一族の力を排除したいと思っていたでしょう。

いずれにしても秦の誰かが義渠王を騙しておびき寄せて殺したのは間違いないようです。

紀元前265年。家臣の范雎ら進言を受けて昭襄王は力を持ちすぎていた宣太后の一族、魏冄や華陽君を追放しました。自らの兄弟の高陵君と涇陽君も追放しました。宣太后は政治的な力を失いました。

最後の愛人・魏丑夫

晩年の宣太后には魏丑夫という情夫(愛人)がいました。

儒教が広まる前の古代中国では。身分の高い女性に情夫がいても大きな問題にはなりません。周囲の人も知っている半ば公認の仲です。

宣太后と魏丑夫がいつごろから親しくなったのかはわかりません。義渠王の死後に愛人になったと思われます。

もし、義渠王が生きているときに魏丑夫が愛人になったのなら、義渠王を殺害した理由は男女関係のもつれ。義挙王が宣太后の寵愛を失ったからになるかもしれません。

でも義渠王の持つ兵力は宣太后とその一族には必要でしょうから。愛人のために殺したとは考えにくいですね。

とにかく、宣太后は魏丑夫を寵愛していました。

宣太后は重病になってしまいます。死期を悟った宣太后は遺言を残しました。それは「自分が死んだら魏丑夫を殉葬させよ」というものです。宣太后は魏丑夫を大変愛していたので死後も一緒にいたいと思ったのです。

それを知った魏丑夫は怖くなりました。死にたくないと思った魏丑夫は重臣の庸芮に相談。庸芮が宣太后を説得して魏丑夫の殉葬を諦めさせました。

紀元前265年。宣太后は死去。享年72.

70歳を超えても愛人がいたということですね。

 

さまざまな解釈のできる宣太后

現代の中国では。宣太后は自分を犠牲にして義渠を滅ぼした愛国心の強い女性として高く評価されているようです。でもその評価は政治的な意図が入りすぎています。

義渠王を殺したのは宣太后の意図ではなかった可能性もあります。義渠王と親しくなったのも一族の利益のためかもしれません。

70歳になっても愛人のいた宣太后ですから、若い頃の義渠王は本当にいい男で一緒になりたいと思ったのかもしれません。

意外とドラマ「ミーユエ」のミー・ユエと義渠君の描かれ方は事実に近かったかもしれませんね。

ドラマの宣太后(羋八子)

ミーユエ 2015年、中国 演:孫儷(スン・リー)
(原題:思美人) 2016年、中国 演:黄暁婉
昭王 2017年、中国 演:寧静(ニン・チン)

 

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