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嫪毐(ろうあい)の史実・趙姫の愛人は嬴政に反乱を起こして処刑された

秦 8 春秋戦国

嫪毐(ろうあい)は古代中国・秦国の政治家で偽宦官。

秦の相国(宰相)呂不韋のコネで秦の後宮に入りました。
太后(趙姫)の愛人になり、太后の後ろ盾で大きな力を得ます。ところが横暴なふるまいをしたことから嬴政たちに嫌われ、最期は反乱を起こして処刑されました。

マンガ「キングダム」にも登場して日本でも知られるようになりました。

司馬遷の書いた「史記」のおかげで巨根で趙姫の愛人になったとか、車裂きの刑で死んだというという面白おかしい面ばかりが強調されがちです。

でも、嫪毐(ろうあい)は愛人というだけでは説明しきれない人物のようです。資料からうかびあがる当時の宮中での立場なども紹介します。

史実の嫪毐(ろうあい)はどんな人物だったのか紹介します。

 

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嫪毐(ろうあい)の史実

生年月日:不明
没年月日: 紀元前238年

名前:嫪 毐(ろう・あい)

父:不明
母:不明
情人:趙姫
子供:二人。

彼は春秋戦国時代の秦王・嬴政に仕えました。

日本では弥生時代の人になります。

浪人から呂不韋の食客になる

生年は不明。
両親も出身地も不明。

嫪毐(ろうあい)は呂不韋の食客だったといいます。

食客は自分の特技を生かして金で雇われている人のことです。

春秋戦国時代は戦争が何百年も続いている時代です。いつも戦ってばかりだと国が疲弊するだけなので外交や策略で決着をつけようとしました。そこで様々な人材が必要になります。国の高官たちは武術に優れた人、交渉や弁舌にすぐれた人、策略を考えたり様々な特技を持った人を雇って自分の出世のために役立てました。

日本にも剣客、論客などの言葉がありますが。食客はその元になった言葉です。

当然、雇われていない人も多数いて侠客、遊客などといいます。わかりやすく言えば浪人です。カッコ悪いから浪人といわないだけです。メンツを大事にする中国では言葉だけでもカッコよくしないといけません。

浪人時代の嫪毐(ろうあい)が何をしていたかは分かっていません。

嫪毐(ろうあい)が呂不韋にとってどのように役立つ特技を持っていたのかはわかりません。

秦の相国(宰相)呂不韋は、秦王嬴政が幼いので後見人になって政治を仕切っていました。そして嬴政の母・趙姫の愛人(情人)になっていたといいます。

当時としては地位のある女性が未亡人になると、愛人(情人)を作るのは珍しくありません。

古代中国の情人事情についてはこちらもご覧ください。

宣太后の情人だった魏丑夫の記事が中心ですが後半は当時の情人事情について詳しく書いています。
・魏丑夫・殉葬されそうになった宣太后最後の愛人

 

太后の愛人になった嫪毐(ろうあい)

太后(趙姫)との関係を清算したい呂不韋

もともと太后(趙姫)と呂不韋は趙国にいたときからの知り合いです。愛人だったという話もありますが。趙姫は裕福な家のお嬢さんだったという話もあります。商人だった呂不韋の愛人だったというのは後から作った話かもしれません。

秦国に来て頼りにする人のいない趙姫にとっては、呂不韋は頼れる男でしたし情が移っても不思議ではありません。

ところが呂不韋は二人の関係が嬴政にばれるのが怖くなり、趙姫との関係を精算しようとします。

そこで呂不韋が代わりに用意したのが嫪毐(ろうあい)でした。

司馬遷の書いた嫪毐(ろうあい)は誇張されすぎ?

司馬遷が書いた「史記」呂不韋列伝によると。ある宴会の席で嫪毐(ろうあい)は自分の陰部に桐の木で作った車輪をはめて歩かせたとあります。

なんとも下品で誇張された話です。司馬遷は下ネタが大好きです。史記にはここまで極端でなくても下ネタがよく出てきます。司馬遷は儒学者なので普段は難しいことばかり書いていますが、いろいろ溜まっていたのです。本人が宮刑(去勢)になったので解消したいものはいろいろあったかもしれませんが。

特に司馬遷は嫌いな人のことを滅茶苦茶に書く傾向があります。

呂不韋は嫪毐(ろうあい)を後宮に入れました。周囲には「宮刑=去勢されて宮中で働かされる奴隷になること」をうけた宦官だと偽りヒゲも抜かせました。

趙姫は嫪毐(ろうあい)をすっかり気に入って新しい愛人にしました。

この時代の情人になる男は色白の優男が多かったといいます。今で言う中性タイプの美形です。今も昔も美形男子の基準は似ていたようです。今で言うホストみたいなものです。

嫪毐(ろうあい)も色白で中性的な美形で若かったのでしょう。オバサマたちはそういう男が大好きです。司馬遷の書いた卑猥な人物ではなかった可能性もあります。

でも当時から情人は存在したとは言え。「手柄をたてて出世をめざすのが男の生き方」と信じるマッチョな男性たちには評判が悪いです。司馬遷のような禁欲的な儒学者からも嫌われます。だから歴史書には必要以上に悪く書かれてしまいます。

嫪毐(ろうあい)をすっかり気に入った太后(趙姫)

周囲の男たちの評判は悪かったものの、趙姫は嫪毐(ろうあい)がすっかり気に入って子供も二人生まれました。

と史記には書かれていますが本当に二人と血の繋がったの子なのかはわかりません。趙姫はいったい何歳だったのでしょうか?そんなに子供を産める歳だったのでしょうか?母が二人も子を産んだら、息子の嬴政が気が付かないはずがありません。音信不通のままずっと別居生活だったのでしょうか?

あるいは地位のある女性に情人がいるのは当たり前なので、子ができても嬴政は問題にはしてなかっただけなのでしょうか。

とにかく嫪毐(ろうあい)と趙姫の子がどのような子供だったのか知る手がかりはありません。

でも嫪毐(ろうあい)はただの情人ではおさまりません。次第に力を持っていきます。

実は政治家で領主でもあった嫪毐(ろうあい)

紀元前239年。嫪毐(ろうあい)は長信侯になりました。つまり領地を持っているということです。みずからも多くの食客を雇うようになりました。河西太原(後の毐国)を自分の領地にしました。つまり後宮にいるただの宦官(偽宦官ですが)ではない。ということです。

嫪毐(ろうあい)は呂不韋に継ぐ勢力をもつまでになりました。

嫪毐(ろうあい)はただの情人ではなく大きな力をもつ領主に成長したのです。

でも嫪毐(ろうあい)の評判はよくありません。趙姫に気に入られているのをいいことに横暴になっていたようです。

反乱に失敗

紀元前237年。秦王・嬴政のもとには「嫪毐(ろうあい)は宦官ではなく、以前から太后と不倫を続けています。二人は王(嬴政)が亡くなった後、自分たちの子を跡継ぎにしようと策略をねっています」と告げ口をするものが現われました。

また、賭博場では喧嘩して「俺は王の義理の父親だ」と言ったのがきっかけともいいます。

どちらにしても嬴政のまわりにいる者たちからは嫌われていたようです。

嬴政が20歳になったころ。王としての力を付けてきた嬴政は自分の想う政治をしようとするようになりました。そうなると王に気に入られようと嫪毐(ろうあい)に不利な情報を流すものが現われ始めます。

それに危機感を持ったのが嫪毐(ろうあい)です。

嫪毐(ろうあい)は玉璽を盗んで反乱を起こしました。

嬴政は呂不韋、昌平君、昌文君に命令して軍を動かし、嫪毐(ろうあい)の反乱を鎮圧しました。ところが嫪毐(ろうあい)は逃亡します。でもにげきることはできず、捕まって車裂き刑になりました。

趙姫との間に生まれた二人の子供も囚われて処刑されました。反乱に協力したとして趙姫は幽閉になってしまいます。

 

嫪毐(ろうあい)は権力争いの敗者?

司馬遷の書いた「史記」のおかげで不倫の密通者として有名になった嫪毐(ろうあい)ですが。

当時の嬴政は王とはいっても、実際に力をもつのは呂不韋や趙姫に仕える古い重臣たち。彼ら古い重臣の支配を打ち破って自分で新しい政治をしようともがいていました。そこで自分に従うものを集め古い勢力を排除する機会を狙っていました。

嬴政は法律を作って厳しく国をおさめようという法家思想が気に入っていました。理屈ばかり言って人を惑わしている(と嬴政は思ってる)儒家は嫌いでした。

そのため嬴政のまわりには法家思想の人たちが集まり、そうでない人達は呂不韋や嫪毐(ろうあい)のまわりに集まり。派閥争いがおきていたようです。

嫪毐(ろうあい)もそんな権力争いに破れた者の代表だったのかも知れません。派閥のトップがたまたま太后の情人だったので噂に尾ひれがついてしまったのでしょう。

 

テレビドラマの嫪毐(ろうあい)

 

麗姫と始皇帝 2017年、中国 演:劉昊宸
 1話でいきなり反乱を起こして鎮圧されます。こちらのドラマでは趙姫の愛人の設定。

 

コウラン伝 2019年、中国 演:朱戩
 韓国出身。瓊華王女の親戚。皓鑭と瓊華王女が親しかった縁で嫪毐とも親しくなります。このドラマでは皓鑭(趙姫)とは愛人関係ではありません。嬴政を暗殺しようとしていました。

 

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