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呂不韋|始皇帝を作った男は商人から宰相に出世した

春秋戦国 4.1 春秋戦国

呂不韋(りょ ふい)は古代中国の春秋戦国時代の政治家。商人から一国の宰相に上り詰めた人物です。

裕福な商品で、当時踊り子だった始皇帝の母・趙姫を妾にしていました。秦の国の王子・嬴異人と出会ったことで出世を目指すようになります。

その知略で嬴異人を秦の王にすることに成功。嬴異人と趙姫の子・嬴政(始皇帝)にも仕えました。

しかし最後は自分のまいた不祥事がもとで失脚します。

史実の呂不韋はどんな人物だったのか紹介します。

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呂不韋の史実

いつの時代の人?

生年月日:紀元前292年
没年月日:紀元前235年

名称:呂不韋(りょ ふい)
称号:文信侯(ぶんしんこう)
父:不明
母:不明

日本では弥生時代になります。

おいたち

生年は紀元前292年。

出身地は 衛の濮陽。現在の河南省濮陽県にあった町です。

商人の子として生まれ、若い頃から各地を渡り歩いて商売をして巨万の富を築きました。韓の都・陽翟を拠点に商売をしていたようです。陽翟は現在の河南省北部にあった町。商業都市として栄えました。

そのため韓の陽翟出身と言われることもあります。

嬴異人と出会って出世を目指す

紀元前265年。呂不韋は趙の都・邯鄲(かんたん)にやってきました。邯鄲も商業都市として栄えていたからです。

邯鄲では嬴異人(えいいじん、後の秦の荘襄王)を見かけました。嬴異人は秦の国の王子で趙に人質として来ていました。でも嬴異人は20人もいる秦の王子のひとり。捨て駒的に人質に出されていました。敵国の趙でも監視下におかれ苦しい生活をしていました。

嬴異人はみすぼらしい格好をしていました。でも呂不韋は「これは掘り出し物だ」と思いました。

呂不韋はいったん陽翟に戻って父と相談。将来のために嬴異人を援助することにしました。

嬴異人を秦王の後継者に

ふたたび邯鄲に来た呂不韋は嬴異人と会いました。嬴異人とに金を渡して、趙の偉い人々と交流を勧めます。

さらに呂不韋は嬴異人の出身地・秦にも行きます。華陽夫人の姉に会い、お金を渡して取り入りました。

華陽夫人は秦の太子・安国君の側室です。次期国王が寵愛している人物です。しかし華陽夫人には子供がいません。そこで華陽夫人の姉を買収して華陽夫人が嬴異人を養子にするようにしむけたのです。

華陽夫人は姉の言うとおりに嬴異人を養子にしました。

呂不韋は趙に戻って華陽夫人の養子になったこと嬴異人に報告。喜んだ嬴異人は呂不韋を後見人にしました。華陽夫人の養子になった異人は「子楚」と名を変えました。

趙姫を嬴子楚に差し出す

このころ。呂不韋はある舞姫と付き合っていました。歴史上は「趙姫」とよばれます。趙姫の出自はよくわかっていません。趙の名家の出身とも言われます。

ところが嬴異人が趙姫を気に入ってしまい、妻にしたいと言い出しました。

呂不韋は腹が立ちましたが、ここで嬴子楚の機嫌を悪くしては今までの苦労が水の泡です。しかたなく趙姫を嬴子楚に差し出しました。

始皇帝は呂不韋の子か?

紀元前259年。趙姫が嬴政(えいせい、後の始皇帝)を生みました。漢時代に書かれた一部の歴史書には「嬴政が呂不韋の子供」と書かれています。でも、始皇帝や呂不韋を貶めるための作り話のようです。(秦が滅んだ後にできたのが漢だから)。ただ、そういう噂話はあったのでしょう。

趙からの脱出

紀元前258年。秦の大軍が趙の都・邯鄲(かんたん)を包囲しました。もともと秦の昭襄王は野心があったので、王子の一人くらい犠牲になってもいいと思っていたのです。

当然、趙は人質の嬴子楚を処刑することにしました。呂不韋は嬴子楚を監視している役人に賄賂を渡して嬴子楚を秦の陣地に逃がしました。しかし趙姫と嬴政を助け出す暇がなかったので富豪の家に匿まってもらうことにしました。

呂不韋と嬴子楚は秦に向かいました。

紀元前251年。秦の昭襄王が死去。

紀元前250年。太子の安国君が即位。秦の孝文王になりました。嬴子楚は太子になりました。呂不韋の思惑通りです。

趙に残してきた趙姫と嬴政が秦にやってきました。

ところが孝文王は1年で死亡。嬴子楚が次の王(荘襄王)になりました。

荘襄王の時代

宰相になる

紀元前250年。荘襄王が即位しました。呂不韋は相国(しょうこく)に就任。相国とは秦で宰相のことです。

紀元前246年。荘襄王が死去。太子の嬴政が即位しました。

嬴政はまだ13歳と若いので趙姫が折衝になり、呂不韋が後見する形で政治が行われました。

呂不韋は仲父(ちゅうほ)と呼ばれるようになりました。仲父とは「叔父」の意味もありますが「高い地位の人」という意味もあります。このあたりの呼び方が「始皇帝の父は呂不韋」と思われた原因かもしれません。

「文信侯」と名乗り。洛陽に10万戸の領地を与えられました。

呂不韋は朝廷内でも大きな力を得ました。

紀元前241年。楚・趙・魏・韓・燕の五国連合軍が秦に攻めてきました。秦は函谷関で連合軍を迎え撃ち撃破しました(函谷関の戦い)。このとき軍の総指揮をとったのが呂不韋です。

趙姫との関係が再燃

荘襄王の死後。呂不韋と趙姫の関係は再び男女の関係になっていました。趙姫の方から誘ってきたといいます。

趙姫も呂不韋も秦の国の人間ではありません。お互い敵国の人間になって高い地位に上り詰めました。でも周りには心を許せる人はいません。2人の仲が急接近したのは無理のないことかもしれません。

でも嬴政が成長するにつれて呂不韋は嬴政にばれるのではないかと不安になりました。でも趙姫が手放してくれません。

趙姫の新しい愛人

そこで呂不韋は自分の代わりに趙姫を満足させる男を探しました。それが嫪毐(ろうあい)という人物です。呂不韋は嫪毐のひげを抜き、宦官ということにして後宮に送り込みました。

嫪毐は巨根の持ち主で趙姫はそれに夢中になったという話があります。でも「史記」に書かれた秦の時代の話は荒唐無稽な逸話が多いのであてになりません。

理由はともかく、趙姫は嫪毐が好きになり夫婦同然の仲になりました。趙姫と嫪毐の間には2人の子供が生まれたといわれますがこれも定かではありません。

呂不韋は趙姫との関係を精算しました。これで嬴政から咎められることはなくなったかと思われました。

ところが嫪毐は趙姫の寵愛をいいことに横暴になってきました。宮中での評判もよくありません。

嫪毐を嫌う者たちが嬴政に「嫪毐は宦官ではありません。太后(趙姫)と不倫を続けています」と告げ口しました。

宴会の席で嫪毐が「俺は王の義理の父だ」とわめいたのがきっかけだったともいいます。

疑問に思った嬴政が調べさせると、噂は本当で呂不韋が関わっているのもわかりました。

危険を感じた嫪毐が反乱を起こしますが鎮圧されて処刑されました。趙姫は幽閉されました。

呂不韋も処刑されるところでしたが、功績が大きかったので罷免と蟄居ですまされました。

呂不韋の最期

隠居した呂不韋でしたが、その後も自宅には様々な客人が訪れました。諸国からの評判も高いものもがありました。

呂不韋の評判の高さを聞いた嬴政は「いつか呂不韋が反乱を起こすのではないか」と不安になりました。

そこで嬴政はさらに強い処分を決めました。

「貴公は秦に対して一体何の功績があって河南に10万戸の領地をあたえられているのか。秦王家と一体何のつながりがあって仲父を名乗るのか。一族そろって蜀に行け」と書いた手紙を呂不韋に送りつけます。

嬴政の手紙を受け取った呂不韋は絶望しました。今までの功績を否定されたうえに都から遠く離れた辺境の蜀に流刑になったのです。

そして呂不韋は毒を飲んで自害しました。

呂不韋と趙姫の話については「史記」に書かれた内容は荒唐無稽なものが多く信用できません。しかし秦の朝廷内には改革を目指す嬴政を支持する派閥と、古い体質にこだわる趙姫や呂不韋を支持する派閥があり、呂不韋は政争の犠牲になって失脚したのではないかともいわれます。

始皇帝が存在したのは呂不韋のおかげ

始皇帝の父と言われることもありますが。中国の歴史学会では否定的です。漢の時代に書かれた歴史書は秦については誹謗中傷的な内容が多いのでそのまま信用することはできないからです。

でも、呂不韋がいなければ始皇帝は秦の王にはなれませんでした。始皇帝の父と母をひきあわせたのも呂不韋です。その意味では始皇帝が誕生したのは呂不韋のおかげともいえます。

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