更始帝 劉玄 反乱軍に担がれわずか数年の皇帝人生

漢5 漢

更始帝 劉玄(りゅう・げん)は漢王朝の皇帝。

皇帝になった劉玄は自分の国を「漢」と呼びましたし。劉玄も劉邦の子孫です。

でも歴史家たちは劉邦の建国した漢(前漢)、劉秀の漢(後漢)とは区別して「更始政権」などとよびます。

劉玄は歴史書では無能で意志が弱い人物と評価されることが多いです。

血筋だけで皇帝にまつり上げられた人物とされるのですが。

史実の更始帝 劉玄はどんな人物だったのか紹介します。

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劉玄の史実

いつの時代の人?

生年月日:不明
没年月日:25年

姓 :劉(りゅう)氏
名称:玄(げん)
字: 聖公

国:新→漢(更始)
称号:

父:劉子張
母:何氏
正室:趙氏(趙萌の娘)
側室:韓夫人(豪族の娘)

子供:
劉求(襄邑侯)
劉歆(谷熟侯)
劉鯉(壽光侯)

彼は新から漢(後漢)時代の武将です。

日本では弥生時代になります。

劉玄のおいたち

劉玄は前漢の景帝(前188~前141年)の子孫。漢の宗室(王の一族)。
景帝の子、長沙王・劉発の子孫です。
長沙王の子孫は一族をあげて南陽(現在の河南省付近)に移住。豪族になっていました。劉玄は劉秀と同じ一族ですが。劉玄の祖父は蒼梧郡太守の劉利。劉玄の家は劉秀の家より格式は上です。

劉玄が生まれた年は不明。

南陽郡蔡陽県(現在の湖北省棗陽市西南)の出身。

あるとき、劉玄の父・劉子張は釜侯亭長に罵られ、怒った劉子張は釜侯亭長を刺し殺しました。

その十数年後、亭長の子が劉子張の息子・劉騫(劉玄の弟)を殺害しました。

弟を殺された劉玄は刺客を雇って復習しようとしましたが、その刺客が犯罪を犯してしまい劉玄は平林に逃亡。父・劉子張が捕まって投獄されました。

それを知った劉玄は自分が死んだことにして棺を運ばせました。劉玄が死んだと思った役人は父の劉子張を釈放しました。

その後、劉玄は身を隠して生きていました。

反乱軍に参加

地皇3年(22年)。緑林の乱が起こりました。反乱は劉玄のいる平林でも反乱が起こりました。劉玄は陳牧が率いる平林軍に入りました。

その後、緑林軍では病気が流行、大軍を維持できなくなった緑林軍は新市軍と下江軍に分裂しました。

平林軍は新市軍、劉縯の舂陵軍と合流しました。後に下江軍も合流。

23年。各地の反乱軍が集まった連合軍は新の太守・甄阜を倒しました。

このとき劉玄は「更始将軍」を自称しました。

反乱軍は新しい天子(皇帝)を選ぶことに

連合軍が宛城を包囲中に。天子をたてようという事になりました。平林・緑林軍出身者は劉玄を、舂陵軍出身者は劉縯を指示しました。

数では平林・緑林軍出身者の方が多く、劉玄は連合軍の分裂を避けるために辞退。

劉玄が天子になりました。

このときの連合軍は反乱を正当化するための大義名分がほしかったので、漢王朝の血統をもつ人物なら誰でも良かったです。自分たちの側に天子がいれば賊軍ではない、という理屈です。

平林・緑林軍出身者に「こういう世の中や国を作りたい」という目標を持つ人ほとんどいなかったでしょう。

舂陵軍出身で親分気質で扱いづらい劉縯よりも、平林軍所属で豪族たちも扱いやすい劉玄が支持されました。

更始帝誕生

天子(皇帝)になった劉玄は元号を「更始」、国号を「漢」にしました。

使った元号から劉玄は「更始帝」と呼ばれます。

更始元年6月(23年)。劉縯が宛城を陥落させました。その直後には劉秀が昆陽の戦いで新軍を撃破しました。

更始帝 劉玄は宛城に入り、仮の都にしました。

大手柄をたてた劉縯・劉秀兄弟の評判が急上昇。更始帝は危機感をもちました。

そこで更始帝は劉縯をおびき出して殺害しました。

その後、更始帝は王匡を派遣して洛陽に進軍させ。
申屠建・李松を派遣して武関を攻め、長安に進軍させました。

更始軍の進撃が始まり、各地の領主たちも王莽に従うのをやめて更始帝に従うようになりました。

更始元年9月。更始軍が洛陽と長安を陥落させました。王莽は死亡、新朝が滅亡しました。

更始元年10月。更始帝は洛陽に移動。

更始2年2月(24年)。更始帝は長安に移動。長安を都にしました。

長安の宮殿で暮らし始めた更始帝はすっかり堕落しました。政治は岳父(妻の父)の趙萌に任せきりになりました。

謀反や赤眉軍に攻められて長安から逃亡

ところが赤眉軍が長安に攻めてきました。赤眉軍を恐れた張卬、廖湛、胡殷、申屠建と隗囂は更始帝を脅してでも南陽に戻ろうと計画します。

それを知った更始帝はその5人を呼び出しました。

申屠建を斬りましたが、隗囂は天水に逃亡。張卬、廖湛、胡殷は反乱を起こして長安から更始帝を追い出しました。

更始帝は新豊に逃げました。

誰も信じられなくなった更始帝は王匡、陳牧、成丹も謀反をたくらんでいるんじゃないかと疑います。

更始帝は陳牧と成丹を斬りました。王匡は逃げて長安の張卬らと同盟しました。

その後、更始帝と李松・趙萌は軍をととのえて長安を襲いました。王匡・張卬たちは長安を脱出して赤眉軍に入りました。

更始3年9月(25年)。赤眉軍が長安に攻めてきました。大軍で来た赤眉軍を止めることができず、更始帝はまた長安を脱出します。

赤眉軍が用意した劉盆子に皇帝の座を譲る

一人で高陵に逃げた更始帝でしたが。赤眉軍が「降伏すれば長沙王にしてやる」と言うので降伏しました。

更始帝は玉璽を差し出し、赤眉軍が担いだ劉盆子が皇帝になりました。

赤眉の総帥・樊崇たちは劉玄を殺害しようとしました。でも劉盆子の兄・劉恭が劉玄のために命乞いして劉玄の命は助かりました。

劉玄は「長沙王」の称号を与えられました。

劉玄に恨みを持つ張卬は赤眉軍の武将・謝禄をたきつけます。

12月。劉玄は彼らに殺害されました。

その後。劉秀が光武帝に即位後。「淮陽王」の称号が与えられました。

劉玄の息子は命は助かり、後漢では「列侯」の地位を与えられています。

本当に無能なだけの人物?

歴史書を見る限りでは劉玄は劉秀兄弟に比べると目立った成果は残していません。でも「後漢書」などの歴史書は後漢を建国した劉秀をよく書くために、劉秀以前に滅んだ者はことさら悪く書いています。

劉家の血筋の人間というだけなら何百、何千といたでしょう。その中から劉玄が皇帝になれたのは「扱いやすい」というだけではなかったはずです。

何十万の兵を束ねるのですから、少なくとも「この人ななら担いでもいいかな」と豪族たちに思わせるものがないといけません。平凡で意志の弱いだけの人物にそれがつとまったでしょうか。でも真相は闇の中です。

テレビドラマの劉玄

 秀麗伝〜美しき賢后と帝の紡ぐ愛〜 2016年、中国 演:(2016年):于波

ドラマでは陰麗華の母の弟子だったという設定。
過去に決起が失敗したこともあり、普段は無能なふりをして世間を欺いています。後に皇帝になるだけあって野心家のところがあり、それなりに有能な人物として描かれます。

もちろん史実では陰麗華と劉玄の関わりはありません。

 

出典:amazon

 

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