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宋 太宗 趙炅 の中華統一達成と領土拡大の挫折

宋 4.1 宋の皇帝・男性皇族

宋 太宗 趙炅(ちょう・けい)は宋(北宋)の第2代皇帝です。

宋を建国したのは兄の太祖 趙匡胤でしたが。中華を統一したのは太宗 趙炅の時代です。

太祖 趙匡胤までは五代十国の続きで、太宗 趙炅の時代から統一国家としての宋の始まりといえます。とはいえ燕雲十六州は遼(契丹)の領土になったまま。

太宗 趙炅は完全な中華統一目指して遼に戦いを挑みますが敗退してしまいます。

宋は文化的なイメージで語られることが多いのですが、実は宋はもともと軍閥が作った国なので好戦的です。太宗の時代までは頻繁に戦争を起こしていました。太宗が遼に敗北した後、目立った軍事行動はしにくくなってしまいます。

それでも太宗 趙炅は中華世界をほぼ統一、北宋・南宋あわせて約300年近い宋の基礎を作った優れた皇帝といえます。

太宗 趙炅はどのような人物だったのか紹介します。

 

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宋 太宗 趙炅の史実

生年月日:939年11月20日
没年月日:997年5月8日

姓 :趙(ちょう)
名称:光義(こうぎ)→炅(けい)

国:宋(北宋)
地位:皇帝
廟号:太宗

太宗時代の始まり

開宝9年(976年)12月。趙光義が即位しました。「太宗」の誕生です。

太宗は即位すると臣下たちに「地位や身分は保証する、心配するな」と呼びかけ、兄・太祖の方針を受け継ぎ国を守っていくこと宣言しました。太祖時代と何も変わらないと主張して太祖の崩御、太宗の即位に動揺する人々を落ち着かせました。

日本と違って中国王朝は年内に皇帝が崩御しても元号は変えません。年が代わったら新しい元号にします。ところが太宗は年が明ける前に改元。元号を「太平興国」にしました。

こうした慌ただしさも太宗の即位に疑惑が保たれる原因の一つです。

太平興国2年(977年)。年が明けると趙光義は名前を「炅」に変えました。

中華統一

太宗は即位するとすぐにまだ宋に従わない勢力を次々に降伏させました。

清源軍節度使

清源軍節度使は五代十国時代から続いている節度使のひとつでした。太祖が服従させようとしていましたが太祖の死でそのままになっていました。

太宗は即位するとまず節度使の陳洪進に「検校太師」の肩書を与えました。太宗は陳洪進を呼び出して陳洪進に褒美を与えましたが領地に戻ることを禁止。陳洪進を降伏させ領地を取り上げました。

呉越

清源軍節度使が降伏すると呉越は周囲を宋に囲まれた形になりました。呉越単独では大国の宋にはかないません。呉越王の銭弘俶は宋に降伏。領地と兵を返上しました。

太宗は銭弘俶に淮海国王の称号を与え開封に住まわせました。

北漢の滅亡

次に太宗が目をつけたのは宋の北にある北漢でした。過去に後周の世宗や宗の太祖が何度も攻めていたのですでに北漢は弱体化していました。

太平興国4年(979年)。太宗はまず兵を送り北漢の都・太原を包囲。その後、自ら遠征。あわせて10万の大軍で攻めました。遼(契丹)が北漢を助けるため3万の援軍が来ましたが撃退しました。北漢皇帝 劉継元(りゅう けいげん)は降伏。北漢は滅亡。太宗は 劉継元を彭城郡公にしました。

874年の黄巣の乱で唐が混乱して以来、その後の五代十国と戦乱の時代が続きました。約100年ぶりに中原から南の中華世界がほぼ統一されました。

唐の末期から続く戦乱の時代(五代十国時代)に一応の区切りがついて。中華世界は遼(契丹)と宋(北宋)が存在する南北朝時代に突入します。

 

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領土拡大への野望

しかし太宗はそれでは満足していません。燕雲十六州が遼のものになったままだからです。

燕雲十六州は後普が遼の援軍と引き換えに引き渡した領土でした。その後誕生した国々は自分たちものだと主張して遼に戦いを挑んでいました。宋も燕雲十六州を巡って遼と争います。

第一次北伐

沙河の戦い

北漢の降伏からまもない太平興国4年(979年)5月。太宗は勝利した勢いにのって遼の鎮州と易州を攻めました。

宋軍は遼軍の劉禹を降伏させ蕭討古との戦いに勝利しました。最初は宋軍は連勝、勢いに乗って幽州に攻め込みました。

幽州攻め

太宗は諸将に命じて幽州の都を攻めさせました。ところが都を守る韓徳譲、耶律学古の軍に敗北。遼の景宗は幽州に援軍を派遣しました。

高梁河の戦い

太平興国4年7月6日。高梁河のほとりで太宗率いる宋軍と遼軍が戦いました。耶律沙部の率いる部隊には勝ちましたが、夕方に耶律休哥と耶律斜軫の援軍が到着。

夜。遼軍の猛攻撃が始まり宋軍は大混乱。宋兵1万人が戦死。太宗は足に矢を受け一人で逃げました。馬に乗れない太宗はロバの引く馬車に乗り換え撤退しました。その後、宋軍も撤退しました。

遼との戦いは宋にとって建国以来の大敗北になりました。

満城の戦い~契丹包囲網

遼の景宗は宋に反撃を決定。

太平興国5年(980年)。両軍が南下。満城、雁門関、雄州(瓦橋関)で宋軍との戦いになりました。勝ったり負けたりを繰り返していました。

太宗は自ら軍を率いて幽州に遠征しようとしましたが李昉、扈蒙に説得されて止めました。

太宗は定安(旧渤海勢力)、女真、高麗に命令を出して契丹包囲網を作ります。後に契丹包囲網に加わった国・勢力は体制を立て直した契丹に攻められて滅亡か服属することになります。

白藤江の戦い(ベトナム攻め)

979年に南越(ベトナム)の丁朝で内乱が発生。

太平興国5年(980年)。太宗はそれを口実にベトナム占領を決定。侯仁宝と孫全興に陸軍、劉澄に水軍を任せてベトナムを攻撃させました。

南越(ベトナム)の前黎朝は皇帝になったばかりの黎桓(レ・ホアン)が迎え撃ちました。

侯仁宝率いる陸軍はベトナムに進軍して2000余りの兵を討ち取りました。黎桓は白藤江に杭を打ち込み船の侵入を阻止しようとします。劉澄の水軍も白藤江に到着して1000余りの兵を討ち取り200隻の船を沈めました。ところが水軍がなかなか進めず、陸軍との合流に70日もかかりました。

その間に黎桓は兵を集めました。黎桓は偽の降伏文を宋軍に届けます。侯仁宝は降伏文に油断していたところを黎桓の部隊に夜襲をかけられ敗走。侯仁宝は戦死しました。孫全興は撤退を決定。宋軍は撤退しました。

その後、黎桓は宋に使者を送り捕虜を返すと冊封を求めてきました。契丹との戦いを控えている太宗はこれ以上の戦闘は無意味と考え、黎桓を南越の君主と認め冊封しました。

雍熙北伐(第二次契丹攻撃)

982年。遼(契丹)で聖宗 耶律文殊奴 が即位。

太宗は「遼では幼い皇帝が即位して国内が不安定になっている」と聞き遼への攻撃を決定。太宗 趙炅も自ら遠征しようとしましたが工部尚書、参知政事の李至に反対されて断念しました。後に李至は健康を理由に降格になっています。

雍熙3年(986年)3月。太宗は東路軍、中路軍、西路軍の3つの軍を編成。三方向から遼(契丹)を攻めさせました。当初、宋軍は勝ち進みました。

曹彬の率いる東路軍が涿州を占領した後。契丹軍は東路軍を集中攻撃。東路軍が負けて補給路が立たれてしまいます。東路軍は食料が不足して雄州に退却。その報告を聞いた太宗 趙炅は「敵が目の前にいるのに撤退して食料を待つとは何事か」と怒り、補給部隊が到着したら西路軍と合流して幽州を攻撃するよう指示しました。

東路軍が撤退したので西路軍と中路軍も補給が受けられなくなり危険な状態になりました。東路軍は食料をもらうとすぐに引き返しましたが、兵たちは疲れていて各地で契丹軍に敗退。それまでに占領した都市を放棄して退却しました。

契丹軍の耶律休哥は宋軍を追いかけ岐溝関で追いつきました。追撃をうけた宋軍は総崩れになり数万の戦死者が出ました。宋軍はこの戦いで精鋭の多くを失い後の戦いで積極的に攻めることが難しくなります。

高麗との関係

高麗は宋と主従関係を続けていました。太宗 趙炅は5代高麗王 王伷 6代高麗王 王治を冊封しています。宋は高麗からの留学生を多く受け入れ仏教や儒教の経典などを高麗に与えました。

雍熙3年(986年)の遼との戦いでは高麗にも出兵を要請。王治は出兵を拒否。太宗 趙炅が派遣した監察御史の韓国華の要請でしぶしぶ軍を派遣。でも高麗郡は契丹軍とは戦いませんでした。

この戦いで宋は遼に大敗北しました。

その戦いから7年後。

契丹包囲網を次々に崩していった聖宗は清和4年(993年)に高麗を攻撃しました(第一次遼麗戦争)。高麗は宋に援軍を求めましたが太宗は「夷狄(野蛮人)同士が戦うのはよくあることだ。北は平和になったばかり。軽々しく動けるものか」と言い出兵を拒否。

高麗の使節は丁重に扱いましたが、契丹と戦おうとはしませんでした。

晩年の太宗 趙炅は梁と戦う気はなくなっていたようです。

この戦いの結果。契丹包囲網は崩壊。高麗は梁を宗主国にすることになり宋との関係は一旦途切れます。

 

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内政

文官の大幅増

太宗は太祖が行った科挙制度をさらに広めました。科挙回数を増やして文官を大量に採用。中央だけでなく地方の役人にも科挙で採用された文官を配置しました。文官の待遇も良くしました。

宋は荒くれ者の集まりで武装組織が巨大化したような国でした。太祖や太宗はクーデターを防ぐため軍閥の力を弱めました。役人には科挙で採用した文官を任命。皇帝に権力を集中させ皇帝の下で役人が支配する国に作り変えていきます。

宰相の薛居正は採用者が多すぎると批判しましたが。太宗はかまわずに増やしました。

宋の時代。軍人や昔からの貴族の力が弱まり。科挙で採用された役人が新しい特権階級になります。新しい特権階級は「士大夫」「読書人」と呼ばれました。

太祖と太宗は中央集権型の国にするために文官を増やして優遇しました。

しかし宋は役人の給料を高く、数を増やしすぎた結果、財政難になってしまいます。

農業を奨励

五代十国時代。宋を含めた北部の国は軍閥が支配する軍事政権だったので戦ってばかりでした。南部には開拓に力を入れている国もありました。宋は南部の国を征服したので豊かな農業地帯を手に入れました。

太宗は開梱した土地は開拓者の物になる制度を作り農地を広げ。兵士にも開拓を行わせ北部でも農地を広げました。宋が経済が発展して文化が豊かと言われるのは宋が豊かな南部の国をとりこんだからです。

 

後継者問題と晩年

 

太宗は弟の趙廷美に謀反の罪をかぶせて粛清しました。皇太子の 趙元佐は趙廷美と親しかったのでショックを受け精神を病んでしまいました。

雍熙2年(985年)。太宗は 趙元佐を廃して庶人に落としました。

その後しばらくは皇太子を決めませんでしたが。淳化2年(991年)。趙元僖を皇太子にしました。

淳化3年(992年)。趙元僖が病死。

喪があけた至道元年(995年)。三男の趙元侃(趙恒)を皇太子にしました。

至道3年(997年)。病のため宮中の萬歲殿で死去。享年58歳。

その後、皇太子の趙恒が3代皇帝に即位しました。

 

太宗の日本への印象

日本とは公式な交流はありませんでしたが。非公式に僧が派遣されることはありました。

太宗は日本から来た僧侶の奝然(ちょうねん、藤原氏出身、東大寺の僧侶)を手厚く出迎えて話を聞き、日本に王朝交代がなく、国王(天皇家)がひとつの家系で続いていることを知りました。

そしてため息をついて宰相に言いました。

「(日本は)辺ぴな島国だというのに王家(天皇家)はひとつで臣下も代々続いているというではないか。これこそ古きよき国の姿だ。中国は唐の混乱以降は分裂し、梁・周の五代はとくに短命で大臣もほとんど後継者がいない。朕の徳は太古の聖人には劣るかもしれないが、常日ごろからし、統治について考え、堕落することのないようにしている。ずっと続く国、模範になるようなものを作り、子孫が繁栄して、大臣の家も続くようにするのが朕の願いだ」

と語ったといいます。

唐滅亡と五代十国時代の混乱で短命の王朝が続いたことを気にして、そうならないように願っていたことがわかります。

ドラマ

大宋傳奇之趙匡胤 2015年、中国 演:高希希 
大宋宮詞 2021年、中国 演:李少紅

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