懿文太子 朱標(しゅ・ひょう)は明の初代皇帝・洪武帝の長男。
母は馬皇后。
朱標の長男で将来を期待されていました。
厳しすぎる洪武帝と違い、穏やかな朱標は父と意見が対立することもありましたが。洪武帝は朱標を後継者と認めていました。
でも視察から戻る途中に病気になってしまい亡くなってしまいます。
史実の懿文太子 朱標 はどんな人物だったのか紹介します。
懿文太子 朱標の史実
いつの時代の人?
生年月日:1355年10月10日
没年月日:1392年5月17日
名称: 朱標(しゅ・ひょう)
国:明
称号:懿文太子
父:洪武帝 朱元璋
母:馬皇后
妻:孝康皇后 常氏
皇太后 呂氏(建文帝の母)
子供:
虞懐王 朱雄英
建文帝 朱允炆
呉王 朱允熥
衡王 朱允熞
徐王 朱允熙
日本では室町時代になります。
懿文太子 朱標の生涯
元朝の時代。
朱標は至正15年9月5日(1355年10月10日)太平の商人・陳迪の家で生まれました。
父は朱元璋(しゅ・げんしょう)。
母は孝慈高皇后の馬氏です。朱標が生まれたとき、父の朱元璋は集慶(現在の南京)を攻めていました。
戦場にいる朱元璋は長男の誕生を聞くと大喜び。このとき朱元璋28歳。馬氏23歳。当時としては遅めの長子の誕生で、しかも正妻の馬氏が長男を産んだと言うので朱元璋は大喜び。興奮して現地の山の石に「到此山者,不患无嗣(この山に至れば、子孫が絶えることはない)」と刻みました。
朱元璋は学者を呼んで朱標を教育。朱標は宋濂などの学者から経学や儒教を学びました。
龍鳳10年(1364年、至正二十四年)。朱元璋は應天府で呉王に即位。
朱標を世子に立てました。
呉元年(1367年、至正二十七年)。朱元璋は13歳の朱標に臨濠に祖墓参りに行かせ、将来の君主としての能力を養いました。
出発前に朱元璋は次のように教えました。
「古代の賢君は民の苦しみを知っていたため、勤勉で倹約し良い君主となりました。あなたは富貴に生まれ、安逸に慣れています。道中で見聞を広め農民の勤勉さ人々の生活の苦労を知りなさい。故郷に着いたら老人を訪ね私の苦労を知りなさい。」と言いました。朱標は臨濠に到着し祖先の祖墓を祭り、地元の老人を訪ね父の話を聞きました。
明の皇太子になる
洪武元年(1368年)。洪武帝 朱元璋が即位。明が建国しました。
洪武帝 朱元璋は長男の朱標を皇太子にしました。
当時は国ができたばかりで中書省や都督府などの部署も新しくつくられたばかり。臣下の中からは朱標を中書令に任命してはと提案されました。でも朱元璋は若くて経験が浅い。という理由で却下しました。
洪武帝 朱元璋は朱標を自分の後継者と考えていたので大切に育成しよと考えていました。
臣下に過去の王朝の東宮の仕組みを調べさせ、功績のある人物を選んで東宮の主要な役職に任命。大臣クラスの人物に太子を指導させました。東宮はもうひとつの朝廷といってもいいほど人材が充実。朱元璋が遠征している間は太子が国を監督し、将軍や丞相が補佐するしくみが作られました。
洪武10年以降は、政務の奏令はまず太子の朱標が目を通し、次に洪武帝が見て判断。朱標は政治経験を積みました。
厳しすぎる父と意見が対立
太子 朱標は穏やかな性格だったので、厳しすぎる父親とは違う意見を出しました。
朱標は父が大臣や役人に下す処罰が厳しすぎると説得。父子の意見が対立することもあり、二人の関係が緊張することもありました。
洪武帝は簡単に人を処刑し粛清する人ですが、朱標に対しては意見が違ったり一時的に腹が立つことがあっても廃そうとはしませんでした。
視察後に病死
洪武 24 年 (1391 年) 8 月。洪武帝は江南の地に不満を持っていたので首都を移転しようと考え、太子の朱標に関中と洛陽へ視察に行くよう命じました。
朱標は各地を見て回り洛陽が首都にふさわしいと思いました。
ところが道中の無理がたたったのか、戻る途中に病気になってしまいます。長安や洛陽に首都を移す計画は延期されました。
洪武25年4月。太子 朱標が死亡。享年36歳。
洪武帝は朱標に「懿文太子」称号を与えました。
葬儀の日。洪武帝は悲しみに暮れ、喪が明けても朱元璋は喪服を脱ぐことができません。臣下の説得でようやく朝廷で議政することができ、太子を皇陵の東に葬るよう命じました。
洪武帝は朱標の子・朱允炆を皇太孫にします。
朱標の死後。洪武帝はますます厳しくなり大量の臣下を粛清。被害者は10万人とも言われます。
朱標の長男・建文帝が即位した後。「孝康皇帝」追諡され。廟号は「興宗」とされました。
生母論争
「明史」によれば、朱元璋の最初の五人の息子はすべて馬皇后の息子。でも学界では馬皇后が一生子供を産まなかったという説が存在しています。
たとえば『南京太常寺志』には、太子 朱標と秦王 朱樉、晋王 朱棡の生母が李淑妃だと書かれてます。
そのため朱標の生母は朱元璋の側室・李氏だといわれています。
でも、李淑妃の父・李杰の碑文には李杰は1331年生まれと記されています。馬氏は1332年生まれなので1歳しか違いません。
1355年に朱標が生まれた時。馬皇后は23歳、李杰は24歳。李杰の娘の歳はまだ一桁。李杰の娘が1355年に朱標を出産するのは不可能です。また李杰が朱元璋に投降したのは1356年。当然、李杰の娘が朱元璋の側室になったのはその後。朱標の生母が李杰の娘のはずはありません。
少なくとも朱標の生母は馬妃で問題ないのです。
朱標の死後。洪武帝は他の息子ではなく朱標の子の朱允炆を皇太孫に指名。あとを継がせました。朱標が馬皇后の息子で正当な血筋だったというのも理由にあるのかもしれません。
テレビドラマ
永楽帝 2022年、中国 演:何晟銘
コメント