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趙 悼襄王 趙偃・嬴政のライバルはバカ王だった?

春秋戦国 8 春秋戦国

悼襄王(とうじょうおう) 趙偃(ちょう えん)は古代中国 春秋戦国時代の趙の君主。

秦王 嬴政(始皇帝)と同じ世代の人物。同じ頃にそれぞれの国で王になりました。

漫画「キングダム」にも登場。「先代以上のバカ王」と呼ばれてあまり評判はよくありません。

史実の悼襄王はどんな人物だったのか紹介します。

 

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悼襄王 趙偃の史実

生年:不明
没年:紀元前236年

姓:嬴(えい)
氏:趙(ちょう)
名:偃(えん)

主に活躍したのは紀元前3世紀中ごろ。始皇帝と同じ時代の人物です。

日本では弥生時代になります。

おいたち

悼襄王の生年は不明。

趙国の晋陽(現在の山西省太原市)の出身。

父は趙の孝成王。

母は不明です。

趙の国王になる

孝成王21年(紀元前245年)。孝成王が死亡。趙偃が趙国の王に即位。悼襄王となりました。

孝成王時代の末期、廉頗(れん ぱ)が代理相国を務め、軍を率いて魏国の繁陽を攻め落としました。

廉頗が逃亡

ところが即位したばかりの悼襄王は 楽乗を廉頗の代わりの将軍に任命して派遣。怒った廉頗が楽乗を攻撃すると楽乗は辞職して逃走。廉頗も魏国の都・大梁に逃げました。でも廉頗は魏国では採用されませんでした。

その頃。趙国の軍が何度も秦軍に包囲されていたので悼襄王は再び廉頗を採用しようと考えました。廉頗も再び趙国に仕えたいと望んでいました。

悼襄王は使者を大梁に派遣。廉頗がまだ職務を果たせるかどうかを観察させました。廉頗と仲の悪い郭開は使者に賄賂を贈り悼襄王に廉頗の悪口を言わせました。

使者が廉頗に会ったとき廉頗は一食で一斗の米と十斤の肉を食べ、その後に甲冑を身に着けて馬に乗り、まだ戦闘に参加できることをアピールしました。

ところが使者は悼襄王に「廉将軍は歳を取っていますが食欲はまだあります。ただし私と座っているとき短い間に三回もトイレに行きました」と言いました。

悼襄王はこれを聞いて廉頗が衰えたなと判断し、彼を再び採用することは有りませんでした。

 

燕国への攻撃

悼襄王元年(紀元前244年)。悼襄王は魏国と和解し平邑と中牟の道路を開通しようとしましたが成功しませんでした。

同年。悼襄王は将軍の李牧に燕国を攻撃させ、李牧は燕国の武遂と方城を奪取しました。

春平君を秦に送る

悼襄王2年(紀元前243年)。秦王 嬴政は趙国の春平君を招きました。

そのとき泄均(せい きん)は秦国の丞相 呂不韋に「春平君は趙王に非常に寵愛されているので、趙王の近侍が嫉妬して彼を秦国に送る計画を立てました。秦が春平君を拘留してしまえば趙国との交流が絶たれ、近侍の陰謀が成功します。春平君を解放し、代わりに平都侯を残すべきです。春平君は趙王の信頼を得ており、趙王は多くの領土を割いて平都侯に償いをするでしょう」と言いました。呂不韋は同意し、春平君を趙国に戻しました。

同年、趙悼襄王は韓皋城の建設を命じました。

燕国との戦い

将軍の劇辛が趙国にいたころ、将軍の龐煖と良い関係にありました。後に劇辛は燕国に逃れ、燕国の君主 燕昭王に採用されます。

悼襄王3年(紀元前242年)。燕国の燕王喜は、趙国の軍が何度も秦軍に包囲されているのを見て趙国が衰えたと感じ。この機会に趙国を攻撃しようと考えました。

このころ廉頗は趙国を離れていたので、悼襄王は龐煖を趙軍の統帥に任命しました。

燕王喜は劇辛に意見を尋ねると劇辛は「龐煖は対処しやすい」と答えました。燕王喜は劇辛に趙国を攻撃させました。

悼襄王は龐煖を派遣して燕軍を迎撃。龐煖は燕軍を撃破。劇辛を殺して燕軍の2万人を捕虜にしました。

 

秦に敗北

悼襄王4年(紀元前241年)。龐煖は趙、楚、魏、燕の4国の精鋭部隊を率いて秦国の蕞地を攻撃しましたが攻撃に失敗。

そこで斉国を攻撃し、斉国の饒安を奪取しました。

同年。趙、韓、魏、衛、楚の5国は南北合従同盟を結び、秦国を攻撃しました。

楚国の君主 考烈王が同盟の長を務め、春申君 黄歇が軍務を掌握。連合軍は寿陵を奪取すると函谷関に向かいました。

秦軍は関を出て迎撃。5国の連合軍は敗北してしまいます。

領土獲得

悼襄王5年(紀元前240年)。悼襄王は将軍の傅抵を平邑に駐屯させ、将軍の慶舍が東陽河外の部隊を率いて黄河の橋梁を守りました。

悼襄王6年(紀元前239年)。悼襄王は饒陽を長安君に封じました。同年、魏国は邺地を趙国に割譲しました。

 

悼襄王の最期

悼襄王9年(紀元前236年)。悼襄王は燕国を攻撃、貍・陽城を奪取しました。戦いがまだ終わらないうちに秦国の将軍である王翦、桓齮、楊端和が趙国を攻撃してきました。龐煖は趙を守ろうと戻りますが間に合わず。鄣一体の9つの城邑を奪われてしまいます。

この年。悼襄王は死去しました。

 

女性問題で国を滅ぼす?

王族を混乱させた未亡人を側室にする

悼襄王には悼倡后という妃がいました。もとは邯鄲の遊女でした。趙の王族に身請けされ、妾になりますが彼女のせいで家が混乱。最終的にその王族が死亡して未亡人になりました

すると彼女の美しさに目をつけていた悼襄王が彼女を側室にしようとします。

李牧たち大臣が彼女の素性がよくわからないこと、一族を混乱させたことから反対。すると悼襄王は「混乱するのは少数の権力者次第だ。女と何の関係があるのだ」と言って忠告を聞きません。

悼襄王の言い分は正しいように思えますが、残念ながら悼襄王は

重臣の反対を押し切って側室にしてしまいます。彼女の名前は分かりません。歴史上「悼倡后」と呼ばれます。

王遷を産んだ悼倡后を王妃に

悼襄王と悼倡后の間には趙王遷が誕生。

悼襄王は悼倡后を寵愛するあまり、正妻を追放。悼倡后を王妃にしてしまいます。

さらに正妻の息子で太子に決まっていた 趙嘉を廃し、悼倡后が産んだ王遷を太子にしました。

同年、悼襄王が亡くなり趙遷が即位。幽繆王となります。

幽繆王は無能な王でした。母と臣下に惑わされて国を守ってきた李牧を処刑。

この幽繆王の時代に趙国は滅びます。

人々は趙は悼倡后のせいで滅んだと噂したと言います。

 

テレビドラマ

始皇帝天下統一 2020年、中国 演:蔣毅、子供時代:楊佳燁
子供時代の嬴政が趙にいたときに出会っています。

 

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