明帝 ・宇文毓:有能さが災いになって暗殺された北周の2代皇帝

周 4.2 南北朝

明帝・宇文毓(うぶんいく)は北周の第2代皇帝です。

先代の孝閔帝・宇文覚が宇文護に廃されたあと即位しました。
しかし宇文覚の有能さをおそれた宇文護によって暗殺されてしまいます。在位期間はわずか4年でした。

史実の宇文毓はどんな人物だったのか紹介します。

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明帝 宇文毓の史実

いつの時代の人?

生年月日:534年
没年月日:560年

名称:宇文 毓(うぶん いく)
称号:明帝
父:宇文泰
母:姚氏
妻:明敬皇后独孤氏
徐妃

子供:
宇文賢
宇文貞
宇文實

彼は北周の第2代皇帝です
日本では飛鳥時代になります。

おいたち

534年。西魏の重臣・宇文泰の長男として生まれました。母は側室の桃氏。そのため宇文毓(うぶんいく)は嫡子のあつかいは受けませんでした。

548年。寧都郡公になりました。

556年。大将軍になり、隴西地方を治めました。

宇文泰は跡継ぎ問題で悩んでいました。長男は宇文毓でしたが側室の子でした。正妻の子・宇文覚が世子(跡継ぎ)になりました。その後、父・宇文泰は死亡します。

557年1月。異母弟の宇文覚が天王に即位しました。
宇文毓は柱国(最上位の将軍)に任命されました。
岐州刺史になって岐州を治めました。善政をおこなったといわれます。
このころ独孤信の長女と結婚しました。

皇帝になる

557年9月。ところが従兄弟の宇文護が孝閔帝(宇文覚)を廃位。宇文毓(うぶんいく)を新しい皇帝に迎え入れようとしました。宇文毓は断りましたが重臣たちの要請をうけて天王になることを決めました。

557年。天王に即位。弟の大将軍・宇文邕を桂国にしました。

558年1月。宇文護を太師にして妻の独孤氏を王妃にしました。しかし4月に王妃独孤氏は死亡しました。宇文護が政敵の趙貴や独孤信を粛清した影響があったのではないかといわれます。

559年。太師の宇文護が内政の権限を返上したので宇文毓(うぶんいく)が内政を行いました。しかし軍事は宇文護が握っていました。

周暦を作成しました。

南朝の陳が攻めてきた時は自ら鎧を来て出陣しました。

吐谷渾(とよくこん、鮮卑系の遊牧民国家)が攻めてきた時は大司馬・賀蘭祥に迎え撃たせました。吐谷渾は撤退しました。

エフタル(インドとペルシャの間にあった遊牧民国家)と突厥の使者がやってきました。

激しい雨が続いたとき。各地に使者を送って被害を調査。この災害で被害にあったものに金銭や絹を与えました。

君主の称号を「天王」から「皇帝」に変えました。

560年。突厥の使者を迎えます。

ところが宇文護は宇文毓が予想外に有能なので疎ましく思いました。宇文護は皇帝を傀儡にして権力を握っておきたかったので、有能な皇帝はかえって邪魔なのです。

そこで宇文護は宇文毓に毒入りの餅を出すように命令しました。宇文毓は毒が入っているのに気が付きましたが、あえて食べました。

そして死の直前に「生死は必然のことだ。わたしは不徳だったが書物を読み、聖人、賢人たちと論議をして民心を知ろうと努力したが、まだ分からないこともある。群臣一同が父である太祖宇文泰のころからよく仕えて働いてくれたことを感謝している。わたしは在位4年を過ぎたが、まだ天下統一していないのが残念だ。皆で協力して太祖皇帝の遺志を為し遂げてほしい。そして私の子供はまだ幼く国を治めるには不十分だ。弟である魯国公の邕は寛容で情け深く度量が大きい。どうか魯国公邕を支えて天下人にして欲しい」と遺言を残して死亡しました。享年27。

宇文毓は家族を大切にする人物でしたが、弟の宇文邕とはとくに仲がよかったといいます。書物を好み、詩文を作るのが得意でした。即位後に学者を集め歴史書を発行しました。

宇文毓は頭がよく度量の大きな人物でした。しかしそのことがかえって宇文護警戒心をもたせ暗殺に繋がったのは皮肉です。

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