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文帝・楊堅は隋の初代皇帝

隋 5.1 隋唐の皇帝・皇子

文帝・楊堅は隋の初代皇帝です。

楊堅は北周の武将でしたが、反乱を起こして隋を建国。

300年ぶりに統一された中華王朝を作りました。

そのため漢民族だといわれることもありますが、祖先は遊牧民族の鮮卑系だとされています。

史実の楊堅はどんな人物だったのか紹介します。

 

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楊堅の史実

いつの時代の人?

生年月日:541年7月21日
没年月日:604年8月13日

在位:581年3月4日~ 604年8月13日

漢姓:楊(よう)
鮮卑姓:普六茹(ブルスカン)
名:堅(けん)
鮮卑姓:普六茹
幼名:那羅延
諡号:文皇帝
廟号:高祖
父:楊忠
母:呂氏
夫人:独孤皇后

子供:楊勇、楊広(煬帝)

彼は隋の初代皇帝です

日本では飛鳥時代になります。

楊堅の一族は鮮卑系

中国の歴史書では楊堅は漢民族の後漢の名家・楊震の子孫と書かれていますが。鮮卑系だといわれています。

鮮卑はもとは中国東北部からモンゴル高原に暮らしていた遊牧騎馬民族でした。拓跋氏が五胡十六国時代に北魏を建国。漢民族の文字や習慣を取り入れました。漢字一文字の姓を名乗る一族も出てきます。楊氏も鮮卑から漢化した人々でした。

父・楊忠は北魏~北周の将軍

楊堅の父・楊忠(よう ちゅう)は北魏に仕ええていた将軍でした。やがて北魏は東魏と西魏に分裂。楊忠は西魏の実力者・宇文泰(うぶん たい)に仕えました。宇文泰のもとで功績を重ねた楊忠は隋公(随国公)になりました。また鮮卑系の復古を目指した宇文泰は漢姓を鮮卑姓に戻す政策を進めます。

楊忠には普六茹の姓が与えられました。「普六茹」は楊(柳の一種)と同じ意味を持つ鮮卑系の言葉「ブルスカン」を漢字に置き換えたものです。

楊堅のおいたち

541年。楊堅は馮翊(陝西省大茘県)の般若寺という寺で生まれました。楊堅は智仙という尼層に育てられました。

隋建国の直前まで楊家の姓は「普六茹」ですがこの記事では「楊堅」と書きます。

14歳のとき。宇文泰のもとで働き始めます。宇文泰の信頼が厚い・薛善(せつぜん)の配下になりました。

15歳のとき。父の功績で散騎常侍・車騎大将軍・儀同三司になりました。

16歳のとき。驃騎大将軍になります。

557年。明帝・宇文毓(うぶん いく)が即位。

このころ柱国将軍・独孤信の娘・伽羅と結婚しました。

明帝の時代に右小宮伯、大興郡公になり頭角を現し始めます。

560年。武帝・宇文邕(うぶん よう)が即位。
左小宮伯になり。隋州刺史として出向します。
大将軍になります。

父・楊忠が死亡すると隋国公の爵位を受け継ぎました。

北斎との戦いでは功績をあげ柱国将軍になりました。

長女の楊麗華を皇太子・宇文贇(うぶんいん)の妃にします。

578年。宣帝・宇文贇(うぶんいん)が即位。娘の楊麗華は皇后になりました。

楊堅は上柱国・大司馬、さらには大後丞・右司武になり大きな権力を得ます。

宣帝は政治を楊堅に任せて遊んでいたため、楊堅の力が強くなります。

580年。宣帝が死亡、静帝・宇文闡(うぶんせん)が即位。静帝はわずか7歳のため。楊堅が政治を行いました。

楊堅に野心があると見抜いた尉遲迥(うっち けい)や王謙(おう けん)に反乱を起こされました。司馬 消難(しば しょうなん)も反乱に加わります。楊堅は反乱を鎮圧しました。

皇族の宇文冑も反乱を起こしますが鎮圧しました。反乱のあと、楊堅は宇文一族の粛清をはじめます。

このころから普六茹の姓をやめ楊姓に戻します。

 

隋の建国

581年2月。静帝を武力で脅して皇帝の座を奪いました。皇帝の座を譲らせる行為を禅譲といいます。「奪ったのではない、譲られたのだ」という理屈です。

隋の初代皇帝・文帝の誕生です。

静帝や宇文一族を皆殺しにしました。

首都を大興(後の長安)にしました。

587年。後梁を滅亡させます。
589年。陳を滅亡させます。西晋の滅亡依頼、300年ぶりに中華王朝を統一しました。ところが南朝攻略では兵士たちに略奪を禁止していました。兵たちが略奪して住民が反感をもつとあとの支配が難しくなるからです。当時の戦争では略奪は当たり前でした。略奪のわけまえ目当てに参加している者も多かったのです。勝ったのに略奪が禁止されていては不満が高まります。

北朝は東と西に別れて戦争していたので荒廃しています。南朝は軍隊は弱いですが経済は豊かでした。そこで楊堅は南の経済力を利用しようと考えました。そのためには兵士たちの不満を抑え込んででも、支配しやすい形で占領しなければなりませんでした。

598年。高句麗の嬰陽王が遼西を攻撃しました。

楊堅はこの機会を逃しませんでした。敵国の弱体化と、兵士たちの不満を解消させるため。高句麗遠征を決断します。高句麗遠征では略奪し放題にしました。占領する予定のない外国ならいくら荒らしまわっても問題ありません。逆に敵の国力を弱体化できるので好都合です。当時の大陸の常識はそういうものなのです。

そこで文帝が高句麗に軍を派遣しました。領土を広げることはできませんでしたが。国防と兵士たちのガスぬきを兼ねていたので無理に占領する必要はありませんでした。

新しい制度を採用・中華王朝の基礎を作る

文帝・楊堅は北周時代から国内の組織を変更。中央の組織を三省六部に、地方は郡を廃止して州・県を設置しました。

九品官人法が廃止され科挙制度が始まりました。貨幣を統一。府兵制や均田制など新しい制度が始まりました。こうして中央の政府が大きな権限をもつ中央集権的な国が誕生しました。この仕組みは中華世界の他の王朝にも受け継がれます。

仏教の保護

文帝・楊堅は仏教を厚く保護しました。武帝・宇文邕の時代には廃仏が行われ、楊堅が生まれた般若寺は廃止になっていました。585年にその跡地に大興国寺を建てました。全国に仏舎利を建てました。国教を仏教にして、道教や儒教よりも上の立場とする仏教治国策をとりました。後の唐や日本の仏教政策にも影響を与えます。

後継者争い

文帝は長男の楊勇を皇太子にしました。

しかし文帝の晩年には後継者をめぐって争いが起ります。

楊勇は学問好きで温厚でしたが、礼儀にかけるところがあったので文帝は快く思っていませんでした。

また楊勇は多くの側室を持ち正室を大切にしなかったので独孤皇后は嫌っていました。独孤皇后や重臣の楊素は次男の広楊を次の皇帝にしようと考えていました。そこで彼らは謀をして楊勇が文帝を恨んでいるという話を作り文帝に吹き込みました。

600年。文帝は楊勇を皇太子から廃して次男の楊広を皇太子にしました。

604年。文帝は病になり死亡しました。享年64.

その後、楊広は皇帝になりました。隋の煬帝として知られる人物です。

 

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