順貴人・鈕祜祿氏は清朝の第代皇帝・乾隆帝の側室。
「瓔珞<エイラク>」では順嬪・鈕祜祿·沈璧(ちんへき)として登場します。
皇太后と同じ名門・鈕祜祿氏の出身。
一時は順妃まで地位が上がりました。
ところが、その後なぜか順嬪に格下げになってしまいました。
史実の順貴人・鈕祜祿氏 はどんな人物だったのか紹介します。
順貴人 の史実
いつの時代の人?
生年月日:1750年1月3日
没年月日:1788年
姓:鈕祜祿(ニオフル)氏
称号:順貴人(じゅんきじん)
地位: 常貴人→順嬪→順妃→順嬪→順貴人
父:愛必達(アイビダ)
母:不明
夫:乾隆帝(かんりゅうてい)
子供:なし
彼女が生きたのは清王朝の第6代皇帝・乾隆帝の時代です。
日本では江戸時代になります。
おいたち
順嬪は1750年(乾隆12年)に生まれました。
父は満洲鑲黄旗人総督(長官)の愛必達(アイビダ)。
祖父・遏必隆(エビルン)は4代・康熙帝時代の重臣。スクサハ、ソニン、オボイと並ぶ四大輔政大臣でした。3代・順治帝からの信頼が厚く、まだ幼かった康熙帝を補佐するため選ばれたのです。
1761年(乾隆26年)。父・愛必達は湖広総督(現在の中国湖北省・湖南省)になりました。他にも様々な要職を勤めています。
伯父の策楞・叔父・訥親(ネキン)も乾隆帝に仕えていました。
康煕帝の皇后・孝昭仁皇后・鈕祜祿(ニオフル)氏もエビルンの娘。順貴人にとっては近い親戚になります。
乾隆帝の生母・崇慶皇太后・鈕祜祿(ニオフル)氏も親戚です。崇慶皇太后の姪が順嬪です。ただし同じ鈕祜祿氏でも順嬪の家の方が、崇慶皇太后の家より格上です。
1766年(乾隆31年)。継后・那拉氏が死去。皇后の座が空きました。
乾隆帝の生母・崇慶皇太后・鈕祜祿(ニオフル)氏は親戚の中から次の妃を選ぶことにしました。それが崇慶皇太后の姪にあたる順嬪です。
そこで数え歳で17歳のとき。八旗選秀で選ばれて入宮しました。
八旗選秀とは八旗(=満洲貴族)の娘の中から皇帝の妃嬪を選ぶ制度です。
入宮してすぐに常貴人になりました。
1768年(乾隆33年)。19歳のとき、順嬪になりました。
1776年(乾隆41年)。27歳のとき、順妃に昇進させることにしました。この年、鈕祜祿氏は妊娠していましたが流産しました。順妃への昇格要請がこの出来事と関係あるのかもしれません。
1777年(乾隆42年)。崇慶皇太后のが死去。喪中のため鈕祜祿氏の順妃昇格は中止になってしまいました。
喪が開けた1779年(乾隆44年)。鈕祜祿氏は正式に順妃になりました。
1787年(乾隆52年)。順妃の40歳を祝う「四十千秋慶典」が行われました。総監の劉秉が順妃には銀元宝を9個を追加しましょうと意見を出しました。
ところが乾隆帝は「普通のしきたり通りでいい」と拒否して銀元宝9個の追加はなし、規定通り銀300両(ほぼ銀11kg)の支給でした。それでも充分多いです。このときの銀元宝1個が何両になるのかはわかりません。「元宝」とは中国や韓国時代劇によく出てくるギョーザのような形の金や銀の塊のことです。
名門出身ということで重臣たちの中には順妃を支持する者がいたようです。
でも乾隆帝は周囲の者たちが持ち上げるほど寵愛していなかったようです。
突然の降格
1788年(乾隆53年)。正月9日。総管太監の王承義が勅命を発表しました。なんと「順妃を降格して順嬪にする」という内容でした。
さらに正月25日には順嬪にから順貴人に降格になってしまいました。
このときも降格の命令を伝えたのが総管太監・王承義でした。
太監(高位の宦官)の目の前で降格の勅命を2度も受け取た順貴人の心境はいかばかりだったでしょうか?
一ヶ月の間に2度も降格になってしまいました。その理由は記録されていません。謎です。
1790年(乾隆55年)7月。順貴人は病気になって死亡しました。順貴人の棺は安荘殯宮に送られました。その後、12月に順貴人の棺は東陵に安置されました。
新王朝では妃嬪の降格は珍しいです。貴妃から貴人への2ランク降格も異例です。
いったい何があったのかは謎です。
ドラマのネタなりそうな人物ですね。
テレビドラマ
瓔珞〜紫禁城に燃ゆる逆襲の王妃〜 2018、中国
役名:順嬪・鈕祜祿·沈璧(ちんへき) 演:張嘉倪
ドラマでは瓔珞がいない間に乾隆帝の寵愛を集めます。
皇后・輝発那拉氏たちも危機感をもちます。瓔珞と親しそうにすると見せかけて陥れたりと策略家のいち面も。後に皇帝を暗殺しようとしますが、ばれて監禁されます。
歴史上の順嬪が皇帝を暗殺しようとしたという記録はありません。
乾隆帝を暗殺しようとしたのは伝説上の香妃です。ドラマの順嬪は伝説上の香妃をミックスしたキャラクターになってます。
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