荘烈王后(チャンリョルワンフ)は仁祖の妃。
でも仁祖の寵愛を集めていた貴人趙氏のかげにかくれてあまり目立たない存在です。仁祖とはあまり仲はよくありませんでした。若くして未亡人になります。その後も粛宗の時代まで生きました。
慈懿大妃の呼び方のほうが有名かもしれません。
慈懿大妃に仕えた女官が張玉貞。粛宗と張玉貞の仲立ちをしたのが慈懿大妃だともいわれます。
史実の荘烈王后(チャンニョル王妃)はどんな人物だったのか紹介します。
荘烈王后(チャンリョル王妃)・慈懿大妃の史実
いつの時代の人?
生年月日:1624年12月16日
没年月日:1688年9月20日
名前:趙
称号:荘烈王后、慈懿大妃
父:趙昌遠(チョ・チャンウォン)
母:崔氏
夫:仁祖
子供:なし
彼女は朝鮮王朝(李氏朝鮮)の16代仁祖の2番めの正室です。
日本では江戸時代の人になります。
生涯
1624年。趙昌遠(チョ・チャンウォン)の次女として生まれました。
趙昌遠の家は、光海君時代に家が没落、仁祖反正後に役職に復帰。地方の長官をつとめ、税を軽くするなど人々から慕われました。
1635年。仁祖の妃・仁烈王后(インリョルワンフ)は1635年死亡しました。
3年の喪があけると次の王妃を選ぶことになりました。
1638年12月。趙昌遠が仁川府使をしていたとき。彼の次女が仁祖の妃に選ばれました。それが荘烈王后(チャンニョル王妃)です。
14歳で王妃になりました。
当時の仁祖は43歳。29歳の年の差がありました。
随分と年の差があるように思えます。朝鮮では王が何歳でも新しい王妃は常に十代の娘が選ばれていました。
ところが、荘烈王后は仁祖とあまり仲がよくありませんでした。
貴人趙氏が仁祖の寵愛を独り占めしたためとか、貴人趙氏が仁祖と王妃の仲を邪魔したためだとかいわれます。
1645年。荘烈王后は景徳宮に移りました。王と王妃が別居することになったのです。
姪が貴人趙氏の息子と結婚
1648年。貴人趙氏の長男・崇善君(スンソングン)と荘烈王后の姪(姉の娘)申氏が結婚しました。
この婚姻は仁烈王后の仲介によるものだといわれています。側室の子とはいえ、王の息子ですから王妃に選ぶ権利があったようです。
崇善君は貴人趙氏にとっては希望の存在。その崇善君に自分の身内を嫁がせたのはささやかな抵抗だったのもしれません。
しかし貴人趙氏は王妃の親戚が選ばれたことが気に入りません。申氏に嫌がらせをしていたといいます。
慈懿大妃時代
1649年。仁祖が亡くなると荘烈王后は大妃になりました。慈懿王大妃の称号が贈られました。
そのため慈懿大妃といわれることもあります。大妃時代のほうが長いため、慈懿大妃の呼び方のほうが多いかもしれません。
子供が一人もいないまま、25歳で未亡人になりました。
跡継ぎの孝宗は30歳。義理の息子より若いのです。このことがあとで問題になります。
仁祖亡き後。貴人趙氏はキム・ジャジョムともに、仁烈王后と申氏を呪った罪で訴えられ処刑されました。後ろ盾を失った貴人趙氏を守るものはもういません。
大妃になった仁烈王后は宮廷で手厚い待遇を受けるようになりました。内婦府は孝宗の妃・仁宣王后が仕切っていました。仁宣王后は乱れていた宮廷の秩序をとりもどし大妃をトップにした内婦府の秩序を作りました。
慈懿大妃となった仁烈王后は孝宗と仁宣王后に慕われる王室の象徴的存在になります。
1659年。孝宗が死亡しました。このとき、慈懿大妃の喪服の期間をどうするかで重臣たちのあいだで論争になりました。
顯宗から粛宗の時代
その後、孫にあたる顯宗が即位。大王大妃になりました。
1674年。孝宗の妃・仁宣王后が死亡したときも慈懿大妃の喪服の期間をどうするかで問題になりました。
いずれも慈懿大妃本人とは関係のないところで争いが起きていました。
さらに顯宗が死亡、ひ孫にあたる粛宗が即位しました。
このころには慈懿大妃は昌慶宮で暮らしていました。若くして王妃になった慈懿大妃もこの頃になると王族の中でも年長者です。寂しい余生でしたが。粛宗からは慕われていたようです。
チャン・オクチョンとの関係
粛宗が即位したころ。慈懿大妃に仕えていた女官が張玉貞(チャン・オクチョン)でした。
孝宗の時代。訳官の張炫(チャン・ヒョン)は莫大な富を築いていました。チャン・ヒョンはオクチョンの叔父です。チャン・ヒョンの娘も女官になっており、その縁でオクチョンも女官になったといわれます。
慈懿大妃に仕えていたオクチョンは懿大妃のところに遊びに来る粛宗と出会いました。
しかし粛宗の母・明聖大妃はオクチョンが気に入りません。明聖大妃とチャン・ヒョンは敵対していたためです。明聖大妃によってオクチョンは宮廷を追放されてしまいました。
慈懿大妃は明聖大妃より年長者なのですが。やはり王の母という立場は強いようです。
それでも慈懿大妃は追放されたオクチョンの身を案じ、崇善君(スンソングン)の妻・申氏に手紙を書きました。オクチョンの面倒をみてもらうように依頼したのです。
慈懿大妃はオクチョンにはかなり期待していたようです。王の寵愛を集める人物だと分かっていたのでしょうか。
1683年。明聖大妃がかぜをこじらせて死亡。すると慈懿大妃はオクチョンを呼び戻し、宮中に入れるよう手配しました。
1685年。慈懿大妃の働きかけでオクチョンは宮中に戻り側室となりました。
オクチョンが側室になったのは仁顯王后の働きかけもあったといいます。慈懿大妃が粛宗と仁顯王后の両方に働きかけたからこそ仁顯王后も入宮させようという気になったのでしょう。
その後、オクチョンは粛宗の寵愛を集め側室としての地位を高めていきます。
1688年9月20日。慈懿大妃はなくなりました。享年64年。
翌月の10月28日。オクチョンは息子を出産します。それが後に20代景宗となる李昀(イ・ギュン)でした。
若くして宮中に入り、ずっと日陰の存在だった慈懿大妃。しかし彼女が最後に残したチャン・オクチョンはやがて禧嬪張氏と呼ばれ宮廷を揺るがす存在になります。
貴人趙氏を見てきた慈懿大妃だけに、どのような人物が王の心を捕らえるのかよく知っていたのかもしれません。あるいは自分の果たせなかった王の心を捕らえる夢をオクチョンに託したのでしょうか。
テレビドラマ
仁顯王后 MBC、1988年 演:チョン・ヘソン
チャン・ヒビン SBS 1995年 演:キム・ヨンエ
チャン・ヒビン KBS 2002年 演:カン・ブジャ
宮廷残酷史-花たちの戦い JTBC、2013年 演:コ・ウォンフイ
チャン・オクチョン SBS、2013年 イ・ヒョチュン
華政 MBC 2015年 演:キム・チェビン
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